「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

 「1905年、日本の独島編入は無効。」②

 

しかし日本政府は、1905年1月28日に独島を無名、無国籍(=無主地)の無人島と規定し、本来鬱陵島の名前だった竹島を独島の名前として、2月22日に島根県に強制編入しました。

真実-1 日本は独島を松島と呼んで来たので、独島は日本においても決して無名ではありませんでした。

真実-2 独島は無主地でもありませんでした。日本は1870年に独島を朝鮮の付属、1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです。

結論 日本は独島強制編入が1870、1877年の公文書と繋がらないように、独島を新たに発見された島であるように見せかけて、世界を欺いたのです。

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日本の竹島領有宣言の過程

明治38年1月28日 別紙、内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、右は北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むべき形跡無く、一昨三十六年、本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構え人夫を移し、漁具を備えて海驢猟に着手し、今回領土編入並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け、自今、島根県所属隠岐司の所管と為さんとすと謂ふに在り。依て審査するに、明治三十六年以来、中井養三郎なる者が該島に移住し漁業に従事せることは、関係書類に依り明なる所なれば国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む。

口語訳です。

明治38年1月28日

別紙の内務大臣の無人島所属に関する件の請願提案(請議)を審査したが、(この提案の内容は)この北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から西北85海里のところにある無人島はこれまで他国が占領したと認めるべき形跡がなく、一昨年(明治36年、1903年)日本の中井養三郎という者が漁舎を建て、人夫を移して、漁具を備えてアシカ猟に着手し、今回領土編入並びに貸下げを出願したので、この際所属と島名を決める必要があり、この島を竹島と名づけ、これから島根県所属の隠岐司の所管にするということにある。審査したところ、明治36年(1903年)以来、中井養三郎という者がこの島に移住し漁業に従事したことは関係書類から明らかであり、国際法上占領の事実があると認め、これを日本の所属とし島根県所属の隠岐島司の所管として差し支えないと考えられた。よって、提案の通りに閣議決定してよいものと認める。

日本の竹島領有宣言の過程

国立公文書館に所蔵してある『公文類集第29編』に竹島編入過程の資料がある。下の写真はその『公文類集第29編』の表紙である。竹島編入にあたって、先ず内務大臣の芳川顕正が1905年1月10日、桂太郎総理大臣に「無人島の所属に関する件」という秘密公文を送り、竹島編入のための内閣会議の開催を要請。1月28日、内閣会議で中井養三郎の「りゃんこ島領土編入並びに貸し下げ願い」を承認する形式で編入を決定した。

「1905年1月10日 内務大臣から総理大臣への閣議要請」

秘乙第337号の内
無人島の所属に関する件
北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むべき形跡無く、一昨三十六年、本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構え人夫を移し、漁具を備えて海驢猟に着手し、今回領土編入並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け、
自今、島根県所属隠岐司の所管と為さんとす。右、閣議を請う。
明治38年1月10日
内務大臣
子爵芳川顕正
内閣総理大臣伯爵 桂太郎 殿

「1905年1月12日 内務次官から内閣書記官長への秘密公文」

秘乙第337号の内
無人島所属に関する件、本月10日付を以って本省大臣より閣議へ提出相成り候に付き、右関係書類、左記の通り。及び御送付の候、御用済みの上は、返付相成りたく此段申添候也
明治38年1月12日
内務
次官 山縣伊三郎
内閣書記官長 柴田家門殿

左記
一、中井養三郎より請願書
一、水路部長の回答
一、外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答

「1905年1月28日の閣議決定資料」

明治38年1月28日
別紙、内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、右は北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は、
他国に於て之を占領したりと認むべき形跡無く、一昨三十六年、本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構え人夫を移し、漁具を備えて海驢猟に着手し、今回領土編入並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け、自今、島根県所属隠岐司の所管と為さんとすと謂ふに在り。依て審査するに、明治三十六年以来、中井養三郎なる者が該島に移住し漁業に従事せることは、関係書類に依り明なる所なれば国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む

まず、

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しかし日本政府は、1905年1月28日に独島を無名”

本来鬱陵島の名前だった竹島を独島の名前として”

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ここの所を言いたいのでしょう。「今回領土編入並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け」、口語訳「今回領土編入並びに貸下げを出願したので、この際所属と島名を決める必要があり、この島を竹島と名づけ」

保坂祐二は「島名を決める必要があり、この島を竹島と名づけ」ということから、「島名が決まっていない=無名」「竹島と名付け=鬱陵島の名前だった」と解釈しているようですが、少し違います。「島名を決める必要がある。」と言っているだけで「名前が無い。無名。」とは言っていない。では、何故、島名を決める必要があったのか?それは、「古文書を見ても独島は韓国領土」の検証でも述べていますが、日本では、「鬱陵島」「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれ、「現・竹島」「松島」と呼ばれていました。しかし、この名称は後に混乱が生じているのです。「1870年(1868年?)朝鮮国交際始末内探書。国立公文書館に所蔵してある『朝鮮事件』「朝鮮国交際始末内探書」に、「竹島」「松島」朝鮮付属であるとする外務省役人の見解がある。しかし、ここでいう「松島」「現在の竹島」ではない。

竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末
此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無之 竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事
外務省出仕 佐田白芽
 森山茂
 斎藤栄

[解説] 「この儀は、松島は竹島の隣島」とあるが、現在の竹島(旧松島)を鬱陵島の隣島というには距離があり過ぎる。(竹島から鬱陵島までは約92km。)また「これまで掲載セシ書き留めも無く」とあるが、松島(現竹島)は『隠州視聴合記』や『竹島松島之図』など様々な歴史資料があるので、この「朝鮮国交際始末内探書」でいう松島は現在の竹島とは違う島であることが分かる。これについては後でもう少し触れる。

「竹島」は昔、「松島」と呼ばれ、「鬱陵島」「竹島」と呼ばれていたのが後の時代に混乱が生じたのは、西欧の誤った地図が日本に逆輸入されるなど「アルゴノート島・ダージュレー島」なども原因なのです。「1840年」、長崎出島の医師シーボルトが作成した「日本図」。彼の地図では「アルゴノート島」「タカシマTakasima「ダジュレー島」「マツシマMatsusimaと記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた「鬱陵島」が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。「陸軍参謀局」「1875年」に作製した「亜細亜東部輿地図」この図には昔、「竹島(もしくは磯竹島)と呼ばれていた島が「松島」という島名で書かれ、この「松島(鬱陵島)と朝鮮半島の間に存在しない島「竹島」という島名で書かれている。その一方、「鬱陵島」と隠岐の間にあるはずの「現・竹島」は描かれていないのが解る。

「陸軍参謀局」は同年11月、朝鮮八道全図、大清一統輿図、及び英米が刊行した測量海図などを基に「朝鮮全図」を作成して、後年、農商務省図書館にも所蔵された。この図の「松島」「鬱陵島」なのです。

「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」には現在の竹島はなく、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島/鬱陵島)があるのみです。

1877年」公文録 内務省之部 一 明治十年三月」でも「磯竹島一ニ竹島ト称ス(磯竹島、あるいは竹島と称す)「次ニ一島アリ松嶋ト呼フ(次に一島あり 松島と呼ぶ)「竹島・松島」が出てくるが、結局内容を読むと両方とも「鬱陵島」の事を説明している。「2つの鬱陵島」が記述されている。これは「竹島外一島」に関する事で細かい説明は「古文書を見ても独島は韓国領土」を参照の事。

軍艦「天城」の調査 in 1880」 そこで、日本政府は、混乱した鬱陵島の周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、「鬱陵島」に該当する島を「松島」、今日の「竹島」に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔「竹島」と呼ばれていた「鬱陵島」「松島」となり、「松島」と呼ばれていた島が「リアンコールト岩」となるのである。調査後、外務省書記官の北澤正誠が「竹島考証」を著した。「於是竹島松島一島両名或ハ別ニ二島アルノ説紛紜決セス」と記している。「紛紜(ふんうん・物事が入り乱れるさま。)「紜」(訓読み(漢字を、その意味にあたる日本語の読み方で読むこと)みだれる)「ここにおいて1つの島に竹島松島という2つ名があるとも、あるいは別の島につけられたものだという説が入り乱れていてはっきりしない」と読み下せます。北沢正誠・竹島考証

しかし、「1881年」に内務省地理局が作成した「大日本府県分轄図」。これに現在の竹島は描かれていない。

「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)シーボルト図の座標からマーカーを付けました。位置を見れば明らかに「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)です。海軍と内務省の情報交換がまだ上手く出来ていなかったようです。

「1882年(明治15年)に内務省地理局が作成した「朝鮮国全図」。これには「竹島」は無く、「鬱陵島」「松島」と記載されている。

明治十六年(1883年)公文録 外務省三月四月

公第二七二号
我邦人朝鮮国所属
蔚陵島[我邦人竹島又は松島と唱ふ]へ渡航し、妄に伐採木切木者有之趣客歳七月中朝鮮政府より照会有之候。間即ち申禁可致告相答置候処、尚又今般別紙甲に通り照会有之候。就ては今後尚渡航者有之候ては彼政府へ対し交際上不都合のみならず、我政府の禁令人民に及ばざるを示すの体なき能はず。依て朝鮮政府へは竹添理公使を以って申禁可致●返翰差遣わし可申し候。且此未心得達ひ無之様乙号●禁●意を以て内務卿より各府県へ諭達相成候様仕度候。尤右諭達●蒙は近時京城辺乱に付、彼国政府と條約交換有之際にて同国使節も滞京中の事に候へは、其等に因縁候様に世上へ感触を未し候ては不都合に被存候間諭達文中にも該島に付朝鮮政府との議定せし年月を挿入致置、従来朝鮮国に属し特に今日に定むるものに非ざるを引証し、諭達の意は単に訣島の位置を明示し渡航を禁するに止まるものに有之候。右之次第に付、御発令の義も朝鮮使節帰国相成候上に有る。之候様仕度此瑕上申候也
明治十五年十二月十六日 外務卿 井山馨

太政大臣三條實美殿
追て右諭達に背き該島に至り私に売買を為す者有之時は、日韓貿易規則第九則に檬て処分し、又樹木を盗伐する者有之時は我刑法第三百七十三條に檬て処分すべきものと被存候。間右之趣は予め司法卿より各裁判所に内訓有之候様致度候。
竹島版図考壱冊為御参考差出候
上申之趣聞届候事
明治十六年三月一日

「解説」 この「公第二七二号」は1882年2月16日、外務卿の井上馨から太政大臣の三条実美へ鬱陵島の現状を踏まえて具申(ぐしん・詳しく申し述べること)したものである。この時期日本では、「鬱陵島」「竹島」もしくは「松島」という2つの異なる島名で呼ばれていたことが確認できる。(原文画像

「1891年」の日本海軍が作成した「日本本州九州及四国附朝鮮」。竹島がリアンコールト岩になっている。「鬱陵島」「松島」だ。

「1894年(明治27年)新選 朝鮮国全図」。位置関係を見れば明らかに、この「松島」「鬱陵島(旧・竹島)ダージュレー島ですね。朝鮮半島の間にある「竹島」も幻のアルゴノート島でしょう。

朝鮮輿地図「1894年(明治27年)清水常太郎著。「松島(鬱陵島)と半島との間に「竹島(アルゴノート島)が記載されている。 (全体図

朝鮮全岸 in 1896年」 海軍水路部が発刊した『朝鮮全岸』には「鬱陵島(松島)の東南に「リアンコールド岩」という名称で「竹島」が記載されている。これをもとに韓国は日本も「竹島/独島」を韓国領として認識してた証拠であるとしているが、これは領土権とは関係のない海図である。海図であるからこそ、『朝鮮全岸』というタイトルでありながら日本領である対馬「石見潟(いわみがた・島根県江津市から浜田市にかけての海岸)「長門(ながと・旧国名の一。今の山口県の北西部に相当する)「壱岐島(いきのしま・九州北方の玄界灘にある島である)などが記載されている。

1898年」の「河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図」。竹島は位置は少し上に行っているけど、隠岐と鬱陵島の間に来ている。「鬱陵島」「松島」だ。これは陸軍参謀局が1875年に作成した「亜細亜東部輿地図」と同じ系譜の図である。松島(鬱陵)と書かれた東側の竹島の位置を見れば、経緯度が正確ではないのが分かる。

1900年」6月12日「鬱陵島調査概況および山林調査概況報告の件「在釜山 領事官補 赤塚正助」「機密京第17号」

「鬱陵島 는 韓國 의 강원도에 속한 도서로 松島 또는 竹島 라고도 칭한다」

「鬱陵島」は韓国の江原道に属した島嶼で「松島」または「竹島」とも称する。」

1900年6月12日に在釜山・領事官補・赤塚正助、警部、渡辺鷹次郎や釜山監理署主事、金冕秀などと、鬱陵島の山林調査を行った。竹島の島根県編入が「1905年」ですが、「1900年」においても「鬱陵島」「松島」とも「竹島」とも呼ばれていると言っている。

「鬱陵島調査概況および山林調査概況報告の件」

機密京第17号

小官は5月30日、警部、渡辺鷹次郎および当領事館所属巡査、高倉純双と腹心、岡登之進および佐藤潤象を連れて、材木調査のために内部の視察官、禹用影および釜山監理署主事、金冕秀とともに二十日、蒼龍号に便乗して鬱陵島に向かって出発して31日に到着、上陸した。翌日から3日間、島監裵季周の自宅で命じられた調査事項に対して双方が立ち会いまして日本人および島監を取り調べました。 残りの日は、山林とその他の雑務を調査して6日に帰途について翌日の7日に釜山に戻りました。 命を受けた調査、報告およびその他の雑項は次の便で送付します。 ここに別紙で鬱陵島の調査概況および同島の山林調査概況を送付しますので、閲覧するよう願ってこの点報告します。敬具

1900年6月12日

在釜山 領事官補 赤塚正助

在京城 特命全権公使 林権助殿

「別紙 1(機密京第17号 附属書)

鬱陵島 山林調査 概況

「鬱陵島」は韓国の江原道に属した島嶼で「松島」または「竹島」とも称する。 (東経130度8分2厘、北緯37度5分)釜山(プサン)で東北側で180マイル、境港では西北側で200マイル、隠岐では140マイル離れた所で、東西は、全6マイル程度で南北はおおよそ4マイル程度だが、海面を抜けば約4000尺、周囲はおおよそ20里程度だ。 石が多くて不毛で浅はかな土地や峰が過密でうっそうとした天然の森林で、日光を見ることができない所が半分を占めていて、老いた木が枯れていく所が今でも少なくない。 陸地で140マイル離れた小島で海底は深くて濃厚な藍色(あい色)を帯びている。波風がいつも荒っぽくて特に湾形をする所がなくて船舶が停泊するのには不都合だ。予想面積はおおよそ9331町2反歩(たんぶ。田畑の面積を反を単位として数えるのに用いる語。土地の面積の単位)で、その中大体6998町反歩は森林(1498町4反歩は渓谷と岩石で5500町歩(ちょうぶ。田畑や山林などの面積を町を単位として数えるのに用いる語は樹林のようだ)約2332町の反歩は木を植えることはできない土地であり、500町歩は切替畑地、1832町は反歩は不毛の地、その他になっている。山林は針葉樹と広葉樹が混ざっている天然林で、広葉樹が大部分を占める。 数種は山毛欅(欅(けや木)ニレ科の落葉高木。山野にみられ、高さは約30メートルにまで達する)、紅葉、●[?]、椿(つばき),梅の木(梅・うめ),柏(欅・けや木)、白丹(しらに[?]、モチ、桜、イチイ(櫟(くぬぎ)イチイ科イチイ属の植物。別名はアララギ。)、桑(クワ(桑)はクワ科クワ属の総称)、五葉松、榎(エノキ(榎)はニレ科エノキ属の落葉高木) 等で、その中でけや木が質が最も良好で●[?]やきめが緻密(ちみつ)だが、梅は良くない。その他は日本種と別に違わない。 運搬は傾斜が非常に激しいが海とそんなに遠くはなく、谿水(けいすい(渓水・谿水)または雨水に頼って付近の沿岸で搬出できる便利さがある。 過去にけや木を伐木した概況は明瞭ではないが、今から13年前、日本に大きな課題を出したという。 恐らく本願寺(本願寺は、各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。)建築用木材ではなかったのだろうかと思う。 その伐木した根元の部分を実際に見た。 その当時は日本人が1,000人も来て伐採したという。(以下省略)

幕末から明治にかけて、西洋の地図が流入したため、「竹島」「松島」の名称は大いに混乱した。もし西洋の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、我々は現在も「竹島」「松島」と呼んでいただろう事は想像に難くない。

 「軍艦新高行動日誌

「1904年9月25日」韓国名「独島」「竹島/Liancourt Rocks」を示すのに使われた始めての記録。

1904年9月、日本帝国海軍は軍艦新高を、鬱陵島と朝鮮半島蔚珍近くの竹邊の間に電信ケーブルを敷設する為に鬱陵島に派遣しました。9月25日の航海日誌に、鬱陵島の日本人が個人的に「竹島/Liancourt Rocks」を訪れ、さらにその島を韓国人は「獨島」と書き、日本人漁民は「リャンコ島」と呼んでいる、と話していたことが記録されています。彼は又、「竹島/Liancourt Rocks」にはある程度真水が湧いていると述べています。さらに、「松島(鬱陵島)からアシカ猟にやってくる人々は、日本の舟を使用した、と述べており、それは例え韓国人がこの猟に参加していたとしても、それは日本人の配下の元で雇われて働いていた事を示しています。「獨島」「竹島/Liancourt Rocks」を指す言葉としてはこれが初出の記録なのです。この前年の1903年には、日本の文書(訳注:『韓海通漁指針』葛生修吉著。)の中で、韓国人漁民は、日本人と同じ名称(ヤンコ)「竹島/Liancourt Rocks」を指すのに使っていたと書かれています。それはつまり、韓国人が直近に、この岩(竹島)について日本人から教えてもらったという事を示唆しています。(軍艦新高の航海日誌の関連部分

「軍艦新高行動日誌:松島でリアンクルド岩の実見者から聞きだした情報:現代語訳」

リアンクルド岩は韓人は独島と書き、我が国の漁夫はリャンコ島と呼んでいる。添付した略図で分かるように、ふたつの岩島で西島の高さは約400尺で傾斜がきつく登るのに難しそうだが、東島は比較的に低く雑草が生え、頂上には平坦な所があり、二、三つの小屋を建てられそうだ。

東島の東側の洞窟のようなくぼみに真水が出る。また南側のB地点の水面から三間ほど離れた所に湧き水が出る。その湧き水は西側に流れていくが、その量はかなり多く年中枯れる事はない。

西島のC地点もやはり真水がある。島の周囲には岩が散らばっており、岩はだいたい平たく大きいものはゴザを数十枚置ける。常に水面から露出している。毎年この岩に群集するものがある。二島の間の所に船を横付けするには十分な広さがある。小船なら陸に揚げて泊める場合が多い。

嵐がきつく船を泊められないような時は、大体松島で風が静まるまで非難しているらしい。松島から毎年猟にやってくる人は六十から七十石積の日本の船を使うらしい。島の上に仮の小屋を建てて十日間ほど滞在するが、稼ぎが相当なものらしい。また漁夫もたまには四十名から五十名を超える時もあるらしいが、真水の不足をどう補っているかは報告されていない。そしてまた、今年になって数回ここに来たが、6月17日にロシアの軍艦が三隻この付近に現れ、周辺をしばらく漂泊していたが、北西の方向へ航行するのを実際に見たものがあるという。

△“「1904年(明治37年)」「松島(鬱陵島)からアシカ猟にやってくる人々は、日本の舟を使用したと述べており、(中略)それは日本人の配下の元で雇われて働いていた事を示しています。韓国人が直近に、この岩(竹島)について日本人から教えてもらったという事を示唆しています。”

「竹島の領土編入を根拠づける「先占」、隠岐の漁師が新証言。」2007/01/06(土)

竹島「先占」を元漁師が証言 領土編入の根拠裏付け。「1935年(昭和10年)前後「済州島の海女雇い、隠岐の仲間と出漁」
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韓国が不法占拠している(記事には“実効支配”とあるが正しくは不法占拠です。)わが国固有の領土、「竹島」で昭和初期、アシカ漁に従事した島根県隠岐の島町の漁師、吉山武さん(96)が産経新聞のインタビューに応じ、「1934年(昭和9年)6月」「竹島」で撮影された写真に自身が写っていることを確認、当時の様子を証言した。

雇った済州島の海女を、朝鮮(半島)の船頭が連れてきた。朝鮮は日本によって竹島を漁場と認識するようになったという。

吉山さんは当時、明治43(1910年)年の日韓併合以前から竹島でアシカ漁をしていた隠岐の「親方」に雇われ、昭和10年前後、毎年5~6月ごろに隠岐の漁師10人程度とともに出漁していたという。日当は1円50銭で、1回出漁すると20日間ほど滞在。「畑仕事用の牛1頭が7円だった」という当時では、破格の収入だった。

竹島はアワビやワカメなど海産物の宝庫だったが、隠岐からは船で12~13時間かかることから、収益を上げるために「一番良く働く」とされていた済州島の海女が雇われていたという。吉山さんが出漁したときは「だいたい4、5人が向こうの船頭に連れられてきた」。竹島では同じ漁師小屋に寝起きし、食事の支度は海女たちが担当したという。

隠岐郷土館(隠岐の島町)は、竹島で撮影された写真を関係者から寄贈され、数点展示しているが、写真を見せられた吉山さんは「昭和9年6月 東島の浜にて撮影」とされているものに当時23歳だった自身が写っていることを初めて確認した。この写真には女性4人が写っているが、いずれも「済州島の海女だ」と証言した。

竹島は島根県隠岐諸島の北西にあり、東西2つの島と数十の岩礁からなる約23ヘクタールの島。島根県は1905年明治38年2月22日、閣議決定に基づき竹島編入を公示したが、その根拠となったのは、▽竹島に他国占領の形跡がなかった、▽隠岐の漁師が操業のため小屋を構えていた--の2点。これらにより、政府は国際法上の「先占(せんせん)の要件を満たすと判断、領土編入に踏み切っていた。

「竹島では、朝鮮の人は自分たちと一緒の時以外には漁をしていなかった」という吉山さんの証言は、隠岐の漁師だけが竹島を実効的に活用していた事実を証明するとともに、先占の要件を改めて裏付けるもので、写真を所蔵する隠岐郷土館の瀧本修二館長は「竹島と隠岐の歴史を裏付ける貴重な話だ。吉山さんから改めて話を聞き展示内容も補強したい」と話している。

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しかし日本政府は、1905年1月28日に独島を無名”

本来鬱陵島の名前だった竹島を独島の名前として”

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名称の混乱で「アルゴノート島」「タカシマTakasima「ダジュレー島」「マツシマMatsusima「鬱陵島」に該当する島を「松島」、今日の「竹島」に該当する島を「リアンコールト岩」と称したり、「河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図」のように、経緯度が正確ではないが現在と同じく「竹島」と記載されたり、「1900年」においても「鬱陵島」「松島」とも「竹島」とも呼ばれているなど、名称はハッキリ定まっていなかった。なので領土編入にあたり、この際だから所属と島名をハッキリ決める必要がある。この島を「竹島」と名付けよう。」という事で此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名けと言っているだけで「名前が無い。無名。」とは言っていない。

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独島は無主地でもありませんでした。日本は1870年に独島を朝鮮の付属、1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです。”

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「日本は1870年に独島を朝鮮の付属」というのは、「1870年」朝鮮国交際始末内探書の事ですね。既に述べていますが、この「朝鮮事件」「朝鮮国交際始末内探書」に、「竹島」「松島」朝鮮付属である」とする外務省役人の見解がある。しかし、ここでいう「松島」「現在の竹島」ではない。

竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末
此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無之 竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事
外務省出仕 佐田白芽
  森山茂
  斎藤栄

竹島、松島が朝鮮附属になった始末。

この件は、松島は竹島の隣島であり、松島に関して記録された文書もなく、竹島については、元禄の一件の後はしばらくの間、朝鮮より居留のために派遣していたが、視察の当時は以前のように無人となり、竹木や竹より太い葭(アシ・蘆・葦)を産し、人參(ニンジン・人参、漢名:胡蘿蔔(こらふ)。)等が自生していて、その他水産物もかなり有るという。

「この儀は、松島は竹島の隣島」とあるが、現在の「竹島(旧・松島)「鬱陵島」「隣島」というには距離があり過ぎる。(竹島から鬱陵島までは約92km。)また「これまで掲載セシ書き留めも無く」とあるが、「松島(現・竹島)は『隠州視聴合記』や『竹島松島之図』など様々な歴史資料があるので、この「朝鮮国交際始末内探書」でいう松島は現在の竹島とは違う島であることが分かる。

西洋の地図と明治政府の混乱 in 1870

 資料:朝鮮国交際始末内探書

資料は、「竹島・松島、朝鮮附属に相成(あいな)り候(そうろう)始末」という明治政府・外務省出仕の佐田白芽(さだはくぼう)が、朝鮮視察から帰国した「1870年」に発した公文書である。これを基に韓国は、日本政府は「松島」を放棄したと主張する。確かに現在の「竹島」は昔「松島」と呼ばれていた。しかしこの公文書にある「松島」とは、本当に現在の「竹島」であろうか?「朝鮮国交際始末内探書」「竹島松島朝鮮付属ニ相成候始末」と題する一項はあるが、しかし本文は、「此儀ハ松島ハ竹島ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之」「竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処当時ハ以前ノ如ク無人ト相成」云々とあるのみで、「竹島・松島が朝鮮付属になった始末」は書かれていない

Web竹島問題研究所韓国が知らない10の独島の虚偽

韓国の東北アジア歴史財団は、日本外務省が平成21年(2009年)2月に発行した竹島広報パンフレット「竹島問題を理解するための10のポイント」の批判を内容とする「日本が知らない10の独島の真実」をネット上に公開しました。その中でも「朝鮮国交際始末内探書」を掲載して根拠にしているのですが、

자료 1 조선국교제시말내탐서(朝鮮國交際始末内探書) (1870년)

일본 외무성 문서로 울릉도와 독도를 조선의 영토로 밝히고 있다.

죽도(竹島: 울릉도)·송도(松島: 독도)가 조선 부속으로 되어있는 사정

송도(독도)는 죽도(울릉도) 옆에 있는 섬이다. 송도에 관해서는 지금까지 기재된 기록도 없고 죽도에 관해서는 원록연간(元祿年間)에주고 받은 왕복서한에 있다. 원록연간 이후 한동안 조선에서 사람을 보내어 거류하게 하였으나 이제는 이전처럼 무인도가 되어 있다.대나무나 대나무보다 두꺼운 갈대가 자라고 인삼도 저절로 나며그 외 어획도 어느 정도 된다고 들었다. 이상은 조선의 사정을 현지정찰한 바, 그 대략적인 내용은 서면에 있는 그대로이므로 우선돌아가 사안 별로 조사한 서류, 그림 도면 등을 첨부하여 말씀드립니다. 이상.

외무성 출사(外務省出仕)

午 4월 사다 하쿠보 (佐田白茅)

모리야마 시게루(森山茂)

사이토 사카에(齋藤榮)

資料1 朝鮮国交際始末内探書1870年

日本の外務省文書で鬱陵島と独島を朝鮮の領土と明らかにしている。

竹島 (竹島/鬱陵島)・松島 (松島/独島)が朝鮮附属になった事情。

松島(独島)は竹島(鬱陵島)の横にある島だ。松島に関しては、今まで記載された記録もなく、竹島に関しては元禄年間にやり取りした往復書簡にある。元禄年間以後、しばらくの間、朝鮮が居留する人を派遣したが、今は以前のように無人島になっている。竹や竹よりも太い葦が育ち、高麗人参も自然に産し、その他、漁獲もある程度になると聞いた。以上は、朝鮮の事情を現地偵察したところ、その大略的な内容は書面そのままなので、まず帰って事項別に調査した書類、絵、図面等を添付し申し上げます。以上.

外務省出仕

午4月 佐田白茅

森山茂

斎藤栄

と、あります。韓国側は「朝鮮の領土と明らかにしている。」と言いますが、竹島、松島が朝鮮附属になった事情。」というタイトルだけで、中身は「朝鮮の領土と明らかにしている」ような、内容ではありません。“「松島は竹島の横にある島だ」” 竹島が「鬱陵島」なら横にある島は「竹島/独島」ではなく「竹嶼」「観音島」です。“「今まで記載された記録もなく」” 既に述べた通り様々な歴史資料がある。後は鬱陵島の説明。“「事項別に調査した書類、絵、図面等を添付し」” しかし、この「朝鮮国交際始末内探書」竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」というのはこれ以上の記述や図面などは無い。タイトルだけで中身が無いのでは何の証拠にもなりません。

ついでですが、「日本の海軍省の朝鮮東海岸図」 「1876年(明治9年)

朝鮮東海岸図 韓国は「日本の海軍省は、独島を韓国の所属と表示している。」と主張する。

朝鮮東海岸図 

位置関係や島の形状を見れば、明らかに「朝鮮東海岸図」は、破線で描かれた「竹島(アルゴノート島)と、「松島(ダージュレー島)、それと現在の「竹島」となる「リアンクール岩礁/Liancourt Rocks」です。朝鮮の東の海岸を描いた図でこれらの島々も描かれているだけで、「竹島/独島」「韓国の所属と表示している」というそこまでの意味は無いでしょう。我田引水(物事を、自分に都合のいいように言ったりしたりすること。)です。

「竹島、松島が朝鮮附属になった始末」とあるが、「元禄の竹島一件」とは、日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題。江戸幕府の許可を得て鬱陵島に出漁した米子の大谷・村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから問題になり、長期間交渉の末、幕府が日本人の「鬱陵島」への渡航を禁止する事により決着した「1696年元禄9年に幕府が「竹島(鬱陵島)渡航を禁止した際、文書には「松島」が含まれていない。「松島」は禁止されていない「1696年(元禄9年1月25日)「鳥取藩が幕府へ提出した「松島」に関する覚書」幕府へ松島帰属に関する書付を提出したが、その中に松島は、何れかの国に附属する島ではないと聞いております。」とあるが、その国とは鳥取藩が領有している「因幡国」「伯耆国」の2国の事です。「鳥取藩」「因幡国(いなばのくに)「伯耆国(ほうきのくに)(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。次に「松島へ猟に行っているというのは、竹島へ渡海する時の道筋であるためで、立ち寄って猟をしています。他領(松江藩、浜田藩など)から猟に行っているということは聞いておりません。但し、出雲国(いずものくに・現在の島根県東部にあたる。)、隠岐国(おきのくに・現在の島根県隠岐郡にあたる。)の者は、米子(米子市(よなごし)は、鳥取県西部の都市。)の者と同じ船で行っています。※韓国に不法占拠されている現・竹島は島根県隠岐島司の所管。)とある。松島へ猟に行く理由の中で「松江藩や浜田藩などが猟に行っているとは聞いていないが、出雲国と隠岐国の人達は米子の人と同じ船で行っている。」と言っているだけで、つまり日本人は行っているのです。

竹島密貿易事件 in 1836」 1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。

「朝鮮国交際始末内探書」「1870年」。今迄述べたように「ダージュレー島(1787年)」「アルゴノート島(1789年)「1840年」、長崎出島の医師シーボルトが作成した「日本図」。彼の地図では「アルゴノート島」「タカシマTakasima「ダジュレー島」「マツシマMatsusimaと記載される。西欧の誤った地図が日本に逆輸入されるなど、「竹島」「松島」の名称は大いに混乱した。

「John Thomson 「朝鮮及び日本図」(1815年)

トムソンが「1815年」に作製した「朝鮮及び日本図」の地図にも、2つの「鬱陵島(DageletとArgonaut)が載っている。欧州の探検家や地理学者は、完全に日本海周辺の島を間違って認識していることがうかがえる。

 2つの「鬱陵島(DageletとArgonaut)が載っている。

「J・C・ウォーカー「日本図」(1835年)

 「Argonaut」 「Dagelet」全図

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 「日本図」(1840年)

シーボルトは江戸時代の最も有名なヨーロッパ人であるが、彼が日本地図を作製するときに、日本の諸文献や地図から、隠岐島と朝鮮半島の間に、「松島(現・竹島)「竹島(現・鬱陵島)があることを知った。ヨーロッパの地図には、日本寄りにダジュレー島、朝鮮寄りにアルゴノート島という2つの島が描かれていた事から、「ダージュレー島を松島」に、「アルゴノート島を竹島」として地図を作製した。これが、「竹島」と呼ばれていた「鬱陵島」が、「松島」と呼ばれる混乱の原因になった。

「Liancourt Rocks(1849年19世紀)

実際の竹島(旧・松島)が欧州の地図に表れるは1849年で、フランス船、Liancourt号によって発見された。その時に竹島はこの船の名前をとってリアンクール島と名づけられた。また、1855年にはイギリスの「ホーネット号(Hornet)が同島を見つけ、その後イギリスでは、「Hornet Rocks」という名称で表れる。

19世紀ドイツの地図。「竹島は日本領」明記。

正確な年代は不明。「Liancourtリアンクール)Hornet(ホーネット)とあり、差別用語としてかただ略語としてか、日本Japan、日本人Japaneseの略語、「Jap」と記載。

「ジョン・バーソロミュー「日本・満州・千島図」(1864年)

地図編集で世界的に名高いバーソロミュー家の3代目、ジョン・バーソロミューによる地図。日本やサハリンの形は正確になっているが、朝鮮半島の形はなぜか退歩した図形になっている。

 これは「Argonaut」「Dagelet」 (全図

エイドリアン・ヒューバート・ブリュエ「中国・日本全図」(1865年)

フランスの地理学者。ここにも2つの「鬱陵島(ArgonautとDagelet)があり、「竹島」に相当する島は描かれていない。

 (全図

大日本沿海略図 in 1867年

そして遂に、これら欧米の誤った地図が日本に逆輸入され、今まで正しく鬱陵島と竹島を認識していた日本に混乱を招く事になる。そのことを物語る象徴的な地図に、勝海舟(幕末・明治時代の政治家。1823年-1899年)が作製した『大日本沿海略図』がある。ここに出ている「リアンクール」は現在の「竹島(旧・松島)である。そして「鬱陵島(旧・竹島)「松島」として誤って記入されている。さらに島が現存しない場所に、「竹島」という島名が見える。


 

大日本四神全図 in 1870年

勝海舟の「大日本沿海略図」の系統を引く西欧の翻訳図として、1870年に刊行された橋本玉蘭の「大日本四神全図」がある。本来、「リエンコヲルト・ロック」の所に松島と書かれていなければならないのに、鬱陵島の所に「松シマ」と書かれているのが解る。「アルゴノート島」と思われる「竹シマ」もある。


「ペーターマン「中国・朝鮮・日本図」(1870年)

ドイツの地理学者。ほとんど現代の地図と変わりのない中国東部・朝鮮半島・日本が描かれている。文字はよく解らないが、隠岐からの位置関係と島の大きさから見て現在の「鬱陵島」「竹島」だろう。これは鬱陵島から対馬を越えるまでラインが引かれている。対馬の横の文字「korea strasse(朝鮮海峡)朝鮮半島と長崎県対馬との間にある海峡。東シナ海と日本海とを結ぶ。

 (全図

ウェラーの図 in 1872年

このウェラーが書いた日本図は、シーボルトが相継いで公開した日本製の地図に基づくものと思われる。日本本土に関しては、四国の佐多岬の先端が南に曲がっていることからして、シーボルトの「Nippon(1832年-54年)に収録された長久保赤水の『日本輿地路程全図』の図形を採用した可能性が高い。だが日本海の朝鮮半島よりある「Argonaut島」は、現存しないのに描かれているのである。ウェラーはイギリスの地図作家兼彫版師兼出版業者である。

 (全図

「1870年」に、外務省出仕の「佐田白芽(さだはくぼう)が発刊した「朝鮮国交際始末内探書」。5年後、「1875年(明治8年)同氏が発刊した改訂新鐫朝鮮全図を見ても、現在の竹島が朝鮮の版図に入っていない。

佐田白茅著 改訂新鐫朝鮮全図

 (全図

「竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ」、竹木や竹より太い葭(あし【葦/蘆/葭】・イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落をつくる。高さは2~3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長い葉が互生する。)を産し、人參(にんじん・セリ科の越年草。茎は高さ約1メートルになり、葉は細かく裂ける。根は太く、地中にまっすぐ伸び、黄橙色)等が自生していて、とある。「公文録 内務省之部 一 明治十年三月」の「鬱陵島」の植物の中にも「竹・マノ竹」「胡 蘿蔔」(こ‐らふ、ニンジンのこと)がある。これは植物の説明から見て「鬱陵島」でしょう。

「韓国古地図の于山島は独島。」① でも説明したが、『太宗実録』の太宗17年(1417年)の項に「于山島」という名が初めて表れる。この時の「于山島」とは「現在の鬱陵島」を指すものと考えられる。「竹嶼(チュクド)だとする説もある。)この「太宗実録」に出てくる「于山島」なる島も「大竹」「芋」を産するとある。「1928年9月8日東亜日報」「観音島」の説明の中で「観音島から少し船で行ったところに「竹島(チュクド・韓国名は竹島。日本名は竹嶼。)という島があるが(中略)多くの「竹」が取り囲み、その中は「雑木」が生い茂っている。」とある。「竹嶼」にも「竹」がある。竹木や竹より太い葭を産する上に、人参なども自生する事からも「現・竹島」と環境が違うことが解る。「日本植物生理学会」のサイエンス・アドバイザーの方に問い合わせてみたところ、「根茎の発達のためにも十分な土壌が必要です。竹島は土壌の不足ということで、どうも植物が繁殖するにはあまり適した環境ではないように見受けます。」と言っておりました。京都大学で竹を研究し、竹関連諸団体に所属、国際協力機構(JICA)専門家としても経験のある農学博士の方HPにも、同じく植物の見られる画像も数枚含めて竹島画像を添付して問い合わせました。やはり、竹が育つような状況にないように見えます。まず、溶岩が固まっただけの島であって、土壌らしきものが想像されません。この島に竹を植えることが出来ても、それが育つような状態にないように思われます。気温と降水量の関係がわかりませんので、竹を植えた場合の判断は異なります。」と言っておりました。「竹」が育つには「十分な土壌」が必要です。

「竹島」は海上にある火山島で火山岩からできています。韓国の独島研究所によると、「元々、独島は強い海風と枯れた土壌のせいで、岩の間に植物が少し育つ程度で木は1本もありませんでしたが、松と椿(つばき)木が植えられて現在では花をつけている様子を見ることができるようになりました。また、独島警備隊が常駐するようになってから、岩の上が整地されて家が建ち…、」とあります。つまり、元々「竹島」「土壌」「枯れている」「木は1本も無い」わけなので、「竹」「芋」「雑木」もありません。「竹木」「太い葭」人參」などが自生していることから、やはりここの部分は「鬱陵島」もしくは「竹嶼」のことであると考えられる。

ちなみに、「胡蘿蔔」は現在のニンジンのことですが、「日本植物生理学会」のサイエンス・アドバイザーの方によると、「人参は栽培植物ですから、竹島でなくても自然界に放置すれば、いずれ死滅するでしょう。」との事。しかし、薬用植物で、「チョウセンニンジン(朝鮮人参)「コウライニンジン(高麗人参)、また単に「人参(人蔘)とも呼ばれる「オタネニンジン(御種人参)は調べたら、原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域といわれ、 中国東北部やロシア沿海州にかけて「自生する」。とありましたので、もしかしたら現在の人参の事ではなく「朝鮮人参」だったのかもしれない。

この朝鮮国交際始末内探書」の当時は「鬱陵島」「松島」と記載したり、現在の「竹島(旧・松島)「リエンコヲルト・ロック」、「アルゴノート島(竹島)が描かれる等、名称に混乱が生じている時。「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」「松島」「現・鬱陵島」の事なら、松島ハ竹島ノ隣島ニシテ」とある事から、「竹島」「鬱陵島」「隣島」なので、鬱陵島の隣島と言える島は「竹嶼」「観音島」くらい。「竹嶼」の韓国名が「竹島」だから「竹嶼」か、或いは「アルゴノート島(竹島)でしょう。

「元禄の竹島一件」とは、日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題。江戸幕府の許可を得て鬱陵島に出漁した米子の大谷・村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから問題になり、長期間交渉の末、幕府が日本人の「鬱陵島への渡航を禁止」する事により決着した。

この「朝鮮国交際始末内探書」「竹島」「現・鬱陵島」の事ならこの「松島」は鬱陵島の隣接島を指しているので、やはり距離が有り過ぎるため、「鬱陵島の隣島」とは言い難い。「鬱陵島の隣島というには距離があり過ぎる」松島(現・竹島)隠州視聴合記』や『竹島松島之図など様々な歴史資料がある」「鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる」「存在しない「アルゴノート島(竹島)が描かれる」「鬱陵島「松島」とも「竹島」とも呼ばれている」竹島は「リアンコールト岩」「リエンコヲルト・ロック」と記載される」「朝鮮国交際始末内探書」を発刊した外務省出仕の「佐田白芽(さだはくぼう)が5年後、「1875年(明治8年)同氏が発刊した改訂新鐫朝鮮全図を見ても、現在の竹島が朝鮮の版図に入っていない。 「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」の項目は題名だけで「竹島・松島が朝鮮付属になった始末」は書かれていない。「鬱陵島」への渡航を禁止するも「松島」は禁止されていない「鳥取藩が幕府へ提出した「松島」に関する覚書」でも、日本人は行っていると説明している。竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていない。つまり、「松島(現・竹島)の事は「朝鮮領」としては扱われた事がない。

総合して考えれば、この「朝鮮国交際始末内探書」でいう「松島」「現在の竹島」とは違う島であることが解る。

 

 

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