「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

 古文書を見ても独島は韓国領土。」①

作成日 2011年11月16日

 

いきなり出オチで悪いですが、古文書どころか、「日本の統治時代が終わった後も」韓国の領域は「竹嶼」までと韓国自身が言っている。「竹島」が韓国の領土ではないと認めています。既に、「日本の公式地図に独島は存在しない。」② でも言いましたがまた言います。

「1945年8月15日」の日本の統治時代からの解放。「日本の統治時代が終わった後」

「朝鮮常識問答」(1946年初版)

鬱陵島を極東とする大韓帝国以来のこの「領土認識」は、「日本の統治時代が終わった後も」変わりが無かった。「崔南善(チェ・ナムソン)「1947年」刊行の「朝鮮常識問答」、要するに「朝鮮の常識Q&A」ですね。

 「朝鮮常識問答」「朝鮮常識」の復刻版です。

赤文字の訳朝鮮의 지도상에 있는 위치는 어떠합니까(朝鮮の地図上に於いて位置はどの様なのか)」 「반도만으로는(半島だけでは)」 「동경130도41분22초 로부터 124도18분35초 까지(東経130度41分22秒から124度18分35秒まで)」 「북위 34도 17분 16초 로부터 43도 0분 36초 까지요(北緯34度17分16秒から43度0分36秒まで)」 「도서를 넣으면(島嶼を加えれば)」 「동경130도 56분 23초 로부터 124도 11분(東経130度56分23秒から124度11分)」 とある。

朝鮮常識問答の和訳版もあるようです。「島嶼を入るれば、東経130度56分23秒から124度11分00秒まで」「北緯33度06分40秒から43度0分36秒まで」

島嶼を加えた場合の「130度56分23秒」は、見ての通り島嶼を入れても韓国の東側は「鬱陵島・竹嶼(チュクド)までで、「現・竹島」を入れていませんね。先に述べた通り「日本の統治時代が終わった後。」です。ちなみに、8月15日、韓国では、1945年8月15日の日本の統治時代からの解放を記念し、また、1948年8月15日の大韓民国政府の樹立を祝う日である。光を取り戻した日、また失った国権を回復したという意味で「光復節 (クァンボッチョル)と呼んでいる。韓国にとっては独立記念日になる。

「朝鮮常識(1948年)

 「島嶼를 넣어서(島嶼を入れて)

「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島)とある。この「竹島」とは日本領の竹島の事ではなく、鬱陵島の隣接島の「竹嶼(チュクド)の事です。韓国での通称は「竹島(チュクド)。日本の「竹島」と同じ名称になるため混同され易いが、別の島である。要するに「朝鮮の最も東は竹嶼」という事ですね。

 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島)

「竹島」の東経は「131度」です。「竹嶼(チュクド)の東経は「130度」で、「竹島」「131度」ですから「慶尚北道 鬱陵島 竹島」が現在の日本領土「竹島」の事ではないと解ります。鬱陵島」から「竹島」までは、約92kmくらい離れていますので、「1度」違うだけで100km近くの違いが出ます。これが、1945年」「日本の統治時代から解放」された後の「1948年」「朝鮮人の常識」です。「竹島」韓国の領土ではないと認めています

韓国人歴史家の玄采が監修し、光武03年(1899年)に作られた地理書「大韓地誌」。これは、まだ韓国が日本の保護国になっていなかった時代に作られた地理書であり、当時、「学校教育」でも使用されていた「準公式文書」である。国立国会図書館関西館(京都)に所蔵されていた。この「大韓地誌」を見ると、日露戦争以前から、韓国が竹島を日本領土として認識していた事実が確認できる。第一編<第一課 位置 幅員 海岸>では、「わが大韓民国の位置はアジアの東部に在り、支那の東北部から日本海と黄海・渤海の間に突出した半島国で、北緯33度15分より42度25分に至り、東経(英国グリニッジ天文台を基準とする)124度30分より130度35分に至り、東は「日本海を界」とし、西は黄海を臨み、東南は一海峡を隔てて「日本の対馬」と相対し…」と記載されている。竹島の位置は東経131度52分であり、ここに記載されている「わが大韓民国」には含まれていない。また、韓国側が竹島の古い名称と言い張る「于山島」は、地図上で鬱陵島の北東に隣接しており、竹島ではなく、現在の「竹嶼」を指している。

では、動画に入りましょう。

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※基礎知識

歴史的に日本では、鬱陵島が竹島と呼ばれ、独島は松島と呼ばれていました。

安龍福密航事件 in 1696

個人的には、動画の「第2次訪日」という言い方が気に入らない。正規ルートで来たような言い回しだけど、実際は最初は大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受け、同島で鬱陵島経営をしていた時代の「1693年」、鬱陵島で漁業をしていた米子の大谷家の漁師達は「安龍福」等と遭遇、「領海侵犯」の証拠として、安龍福と朴於屯(パク・オトン)の二人を捕獲して、日本に連れ帰った。朝鮮漁民に遭遇した時、「領海侵犯」の証拠として捕獲して、鳥取藩に朝鮮側の不法行為を訴えたのです。2回目の、「1696年」「領海侵犯」の罪で連行された朝鮮漁民・「安龍福」が、今度は隠岐島及び鳥取藩に「密航」して来たのです。犯罪者ですよ。「1696年」に江戸幕府は鳥取藩主に対し、鬱陵島への渡海を禁止した。この決定に対し鳥取藩は即日幕命に服し、同日付で「向後、竹島渡海制禁仰出之旨、御紙にて領承其意候」という請書を、幕府に提出した。これで一件落着したかのように思えたが、歴史はそうはうまく進まなかった。対馬藩が、その鬱陵島への渡海を制禁した江戸幕府の決定を朝鮮側に伝えたのは、更に後れて翌春になった。その間に、あの3年前の「領海侵犯」の罪で連行された朝鮮漁民・「安龍福」が、今度は隠岐島及び鳥取藩に「密航」して来たのです。1696年5月末、江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じた4ヵ月後、対馬藩から朝鮮の通訳官に幕府の方針が伝えられる5ヶ月前のことです。この密航で問題がこじれることになる。この安龍福の行動は1728年に編纂された書物『粛宗実録』に書かれている。なお、韓国は、「幕府の鬱陵島への渡海禁止には、同島の付属島である独島(当時・松島)も含まれる」と主張しているが、それは現在の韓国側の概念であって、この渡海禁止令には「松島」の文字は無い。」
 
幕府の「渡航禁制令」(1696年)

幕府の「渡航禁制令」(1696年)。上図は1696年に幕府が竹島(鬱陵島)渡航を禁止した際の通達です。文書には「松島」が含まれていない。

1728年に編纂された書物の『粛宗実録』には、

『粛宗実録』(1728) 1728年に李氏朝鮮で編纂された書物粛宗実録
粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫倭船亦多来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂拾翌暁沱舟入子山島、倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年吾入来此処、以鬱陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、乗船直向伯耆州、仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、諸人並下坐中階、島主問何以入来、答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、而前日犯境倭十五人、摘発行罰、仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。

右からです。

    

翻訳

備辺司 (現在の国防省に相当)の取り調べに安龍福はこう答えた。彼は母を見に蔚山に行き、たまたまそこで会った僧の雷憲らと鬱陵島の話をし、鬱陵島には豊かな海産物があると告げられると、雷憲らは心を動かされ、行ってみることになった。鬱陵島に着くと倭船もまた多く来泊しており、仲間は皆恐れた。だが安龍福が倭人に向かい「鬱陵島は我が境域である。どうして越境侵犯するのか、縛り上げてしまうぞ」と、船の舳先に立って大喝すると、倭人はこう答えた。「吾が輩は本、松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。今、丁度戻ろうとするところだ」。そこで安龍福は、「松島は即ち于山島だ。これもまた我が国だ、どうして住めるのだ」と言った。更に翌日の暁、舟を漕いで于山島に入ると、倭人達はまさに大釜を並べて魚を煮ているところだった。安龍福は杖でそれらを撞(つ)き破り、大いに叱りつけると、倭人達は釜を拾い船に乗せ、帆を上げて去ってしまった。安龍福は船に乗って追いかけたが途中で狂風に遭遇し、隠岐島に漂到した。隠岐島では島主が何故来たのか聞くので、「先年ここに来た折、鬱陵島、于山島を以って朝鮮の他界と定めた関白の書き付けがあるが、ここでは徹底していないようだ。今また我が境を侵犯したがこれはどういう訳だ。伯耆の国にも伝えてもらいたい」と言ったが、久しく何の返答もなかった。伯耆の島主はそれを許したので、李仁成に上疏文(じょうそぶん)を書かせたが、対馬藩主の父親がやって来て「もしこの訴状が幕府に上れば、息子の死罪は免れない。どうか止めてもらいたい」と頼むので、遂にそれは沙汰止(さたや)みとなった。そのかわり前日越境した15人は、処罰された。伯耆の島主は更に「既に欝陵・于山両島が朝鮮に属した後は、領域を犯す者や対馬藩が専横な事をすれば国書を作り、通訳官を通して送って寄越せば、重き処罰を与えてやろう。ついては帰国に際しては護送し、食料も与えてやろう」と語った。しかし、安龍福はそれを辞退した。

解説

この粛宗実録は1728年に編纂された書物であるが、粛宗22年(1696)の条には、安龍福の発言が記録されている。安は備辺司(現在の国防省に相当) の尋問に対して上記のように答えているのだが、これを根拠に韓国側は、竹島に対する韓国の主権を当時の江戸幕府に認めさせたと主張する。竹島問題が起こった1954年、韓国は日本政府が意見を述べたのに対し反論を出しているのだが、原文の「倭言吾等本住松島」「我々は松島に行こうとしていると日本人が言った」と翻訳した。しかし、「住」は居住の意味であり、「行く」という意味ではない。竹島は人が住めない島であることが分かっているので、韓国は辻褄を合わせる為に、故意に資料を捏造解釈したのである。また、「仮称欝陵子山兩島監税」と原文にあるが、税を取る為にはそこに人が住んでいないと取れない。

当時の朝鮮は鎖国政策の中にあり、違反した者は死刑を科せられたのだが、安龍福は、日本に竹島の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をすることによって、自らの功労をでっち上げて死罪を逃れようとした。実際彼は死罪はならずに流罪を言い渡されるのである。上記のように粛宗実録に書かれてある資料を基に韓国政府は発言しているのであるが、韓国は原文そのものの検証は全くしていないのである。また別の記録、『辺例集要』によると、安龍福は于山島を鬱陵島より頗 (すこぶ)る大きな島だったと言っている。しかし鬱陵島と日本本土との間には大きな島は隠岐島以外には存在しない。つまり安龍福が見た大きな島とは隠岐島だったのである。隠岐の島町の面積「242.97km2」。鬱陵島は面積「73km2」

朝鮮王朝の歴史書に記された「安龍福」「功績」と思われている内容は帰国後の供述を記録したもの。李氏朝鮮(1392年-1910年)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。 当時朝鮮も鎖国であったため、「安龍福」は国外へ渡航した事で逮捕され処罰された。『粛宗実録』に取調べの概要が採録されている。「鬱陵島に着くと倭船もまた多く来泊しており」、「安龍福は、松島は即ち于山島だ。これもまた我が国だ」、韓国側は、この『粛宗実録』の記述をもとに、安龍福は于山島=松島=現・竹島が朝鮮領であることを告げて同島水域を日本人が侵犯しないように守った、と主張している。これに対し日本側は、元禄9年(1696年)「鬱陵島渡海禁止」の指令が出されており、安龍福が密航して来た同年5月には日本人は渡航していない。したがって同人の供述は事実に反する(鎖国の禁を破った言い逃れである)、として記録としての価値を否定している。安龍福は、いずれにせよ朝鮮政府を代表して来訪したわけではなく、密航です。同人の言動の評価には限界がある。先の通り、韓国政府は「倭言吾等本住松島」の訳を「松島に住む」「松島に行く(往く)とも歪曲しています。安龍福の証言は事実ではない。

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1696年01月、鬱陵島を往来していた鳥取藩は、独島(松島)は鳥取の領地ではないと江戸幕府に報告しました。

鳥取藩報告書主要内容

1696.1.25 松島(独島)は両国(鳥取藩の二つの国)の所属ではありません。竹島(鬱陵島)に渡海する途中にある島です。松島(独島)は、日本のいかなる国にも属していません。

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幕府へ松島帰属に関する書付を提出。「竹嶋之書附」鳥取藩は、松島は「何れ之国江附候嶋二ても無御座」と承知している旨、回答。(松島は、何れかの国に附属する島ではないと聞いております。)「鳥取藩」「因幡国(いなばのくに)「伯耆国(ほうきのくに)(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。

鳥取藩が幕府へ提出した「松島」に関する覚書(元禄9〈1696〉年1月25日)

一伯耆国米子より出雲国雲津(現、松江市美保関町)まで、道程は約10里。

一出雲国雲津より隠岐国焼火山(現、西ノ島町)まで、道程は約23里。

一隠岐国焼火山より同国福浦(現、隠岐の島町)まで、約7里。

一福浦より松島へ、80里。

一松島より竹島へ、40里。

別紙

一松島へ伯耆国より、海路約120里あります。

一松島より朝鮮へは、約80~90里もあるよう聞いております。

一松島は、何れかの国に附属する島ではないと聞いております。

一松島へ猟に行っているというのは、竹島へ渡海する時の道筋であるためで、立ち寄って猟をしています。他領(松江藩、浜田藩など)から猟に行っているということは聞いておりません。但し、出雲国(いずものくに・現在の島根県東部にあたる。)、隠岐国(おきのくに・現在の島根県隠岐郡にあたる。)の者は、米子(米子市(よなごし)は、鳥取県西部の都市。)の者と同じ船で行っています。※韓国に不法占拠されている現・竹島は島根県隠岐島司の所管。)

「松島(独島)は両国(鳥取藩の二つの国)の所属ではありません。」「松島は何れかの国に附属する島ではないと聞いております。」とあるので大体合っている。「竹島(鬱陵島)に渡海する途中にある島です。」「竹島へ渡海する時の道筋であるため」とあるので、これも大体合う。しかし、「松島(独島)は、日本のいかなる国にも属していません。」とは、そんな事は書いていないのです。松島へ猟に行く理由の中で「松江藩や浜田藩などが猟に行っているとは聞いていないが、出雲国と隠岐国の人達は米子の人と同じ船で行っている。」と言っているだけで、つまり日本人は行っているのです。鳥取藩が「松島は、何れかの国に附属する島ではない」というのは、領有している「因幡国」「伯耆国」の2国の事でしょう。“日本の”いかなる国にも属していない」とは言っていません。

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江戸幕府の渡海禁止令によって、1696年以降19世紀の末まで、公式的に鬱陵島と独島に渡海した日本人はいません。しかし、1836年、濱田藩の八右衛門が、鬱陵島に無断渡航した罪で、日本で処刑されました。

動画の「竹嶋方角図」は朝鮮と鬱陵島と竹島を赤く彩色して、隠岐や日本は黄色く彩色しているが、上図のように元図にはそのような彩色は無い。動画の彩色は多分、韓国KBSの放送の八右衛門図を参考にしたのではないだろうか?

韓国KBSの彩色された「竹嶌方角圖」韓国KBSでは「ハチエモンの判決文にある地図。それはハチエモンが鬱陵島に渡海していた当時に、自身で作成した地図である。韓半島と鬱陵島,独島は赤い色で、隠岐島と日本列島は白色に仕分けされている。すなわち、鬱陵島と独島は同じ色で朝鮮領だった。これは当時の日本人たちの領土意識を見せてくれる重要な資料だ。この地図では、色が確実に仕分けされている。当時の独島は、日本人達が渡海すれば死刑になることもある禁断の地だったのだ。」と言っていますが、隠岐と日本は白色と言うよりは黄色だと思うのだけどそれはともかく、韓国KBSの「竹嶌方角圖」は右の元図と比べると大分違うが動画でも「八右衛門の裁判記録に挿入された」、KBSも「ハチエモンの判決文にある地図」とある。「竹島方角図」「竹島渡海一件記」に掲載されているものですが、両者の文章量は明らかに違います。多分、別の頁と併せれば同一文章になるのかもしれませんが、これは、書写している間に発生したものでしょうか?だとすると、本来、八右衛門が最初に描いた地図には彩色が施されていなかった可能性があります。少なくとも動画の図は元は色付けされてはいない。韓国KBSは下図を参考にしたのかもしれない。

渡海して逮捕された八右衛門が尋問中に書いた方角図」

 渡海して逮捕された八右衛門が尋問中に書いた方角図。

 杉原通信第6回から

赤く色づけされた場所は、朝鮮・竹島・松島・釜山だけでなく、ハマ田の右上・江崎・萩・下関・対馬などにも赤く色付けされています。元々これは、渡海して逮捕された八右衛門が尋問中に書いた方角図。八右衛門が竹島の位置を説明したり、自分の活動内容、或いは活動範囲を説明するのに必要な地名を赤く色付けしたものではないだろうか?この地図が、八衛門の時代又は彩色した時代の領有意識を表しているとするのは我田引水(物事を、自分に都合のいいように言ったりしたりすること。)が過ぎると言えます。それにいつも保坂祐二も韓国もこういう古地図で「同じ色だから韓国領土だ。」としつこく言いますが、それを言うなら、他にも同じ色で色付けされている地図はある。

「改正日本輿地路程全図」

朝鮮は山のような沿岸部分は茶色で陸地は色付けされていない。隠岐と竹島と松島は同じ黄色で色付けされている。対馬はピンクです。朝鮮とは違う色です。

「大日本海陸全図」 「唐土歴代州郡沿革地図」

  

「大日本海陸全図」は隠岐の北西に、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)を描いている。竹島、松島ともに、隠岐諸島と同じ黄色で彩色されている。「唐土歴代州郡沿革地図」は、「松シマ」「竹シマ」「ヲキ」や日本と同じ赤色に彩っている。

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“1836年、濱田藩の八右衛門が、鬱陵島に無断渡航した罪で、日本で処刑されました”

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竹島密貿易事件 in 1836」 1836年に、石州浜田の回船問屋・会津屋八右衛門(いまずやはちうえもん)が、幕府が渡海禁止令を出していた竹島(現・鬱陵島)へ渡り、竹や木材を伐採して密貿易をしていた事が知られ、裁判を受け死刑になった事件がある。この裁判の判決文に、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」という浜田家老の言葉がある。つまり、竹島事件で問題になったのは朝鮮領の鬱陵島への渡海であり、松島(現・竹島)への渡海については何も問題にされていないのである。

1836年- 会津屋八右衛門による竹嶋一件と「竹嶋渡海一件記 全

元禄時代の日朝間の鬱陵島をめぐる領土争いである竹嶋一件と区別して、「竹島事件」とも称されるこの出来事は、石見国濱田の地を舞台にして天保年間に起こった事件です。

濱田藩の御用船係を務めていた廻船問屋会津屋八右衛門(1798~1836)は、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島へ渡航し、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めました(一説には中国・東南アジアまで行ったとされる)。家老岡田頼母、その家臣橋本三兵衛はこれを黙認。天保元年(1830)から数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したといわれます。6年余りを経たのち、薩摩藩の密貿易を内偵中であった幕府隠密、間宮林蔵に内情が知られ、天保7年(1836)、八右衛門と橋本三兵衛は処刑され、岡田頼母等は自刀しました。幕府に対しては反逆者ですが、地元にとっては藩の窮乏を救った海の男として讃えられています。

このいわゆる竹島事件は、竹島領有問題において大変重要です。八右衛門等の松嶋(現・竹島)へ渡海する名目で竹嶋(現・鬱陵島)へ渡海することにした、という供述から、幕府が当時の竹嶋(現・鬱陵島)への渡海は禁止したものの、当時の松嶋(現・竹島)への渡海は禁じていなかったことが分かるからです。韓国の研究者の中に、この事件をもって日本が鬱陵島と現竹島を放棄したと主張する人がいますが、これらの事実から、この竹島事件はむしろ彼らの主張を退ける証拠となるのです。

一連の取調べの内容を記述した文書が多く残されており、その中で八右衛門と橋本三兵衛が松嶋(現・竹島)に渡海する名目で竹嶋(現・鬱陵島)に行くことにした経緯をそれぞれ証言しています。つまり、当時の日本人は竹嶋(現・鬱陵島)に関してはともかく、松嶋(現・竹島)は日本の領内であると認識していた事を示しています。ここに、そのひとつである八右衛門の供述書「竹嶋渡海一件記 全」の一部を紹介します。


 

竹嶋渡海一件記 全東京大学附属図書館所蔵。

(略)

内存書取調文面之儀者兼而到悲讒候次第ニ而者竹嶋之外ニ松嶋ト唱 石見国海岸ママ子之方ニ當リ海上 七八拾里斗相隔候小嶋有之右松竹両嶋とも全空嶋ト相見其侭被差置候も残念之至ニ付草木伐出漁業をもいたし候ハハ自己之徳用而己ニ無之莫太之御国益ニも可有之ト見込右ニ付周防守様へ冥加銀差出方之儀者稼試候上歩合取極可申旨両嶋渡海儀内願仕候事の良自筆下を以相認同八月日不覚

(略)

同月十八日江戸詰荻右衛門方ママ私へ向書状至来文面之趣意者竹嶋之儀日出之地共難差極候付 渡海目論見相止可申来候付其節始而右之次第承案外之至ニ而志願空敷相成残念ニ存即日三兵衛方へ右来状持参いたし頼母勘弁之儀相頼置其後様子尋ニ罷越候処右様江戸表ママ申来候上者竹嶋之方相止松嶋之方渡海いたし試可申分被仰聞候趣三兵衛申聞候付松嶋之儀者小嶋ニ而見込無候得共江戸表ヘハ右嶋の名目残

(略)

「八右衛門とその時代」森須和男氏による口語訳)

住所不定八右衛門(39歳)による供述

天保2年(1831)8月某日、村井荻右衛門様へ内存書を持参した。内存書には、「竹嶋のほかに石見国海岸より北のほうに当たる海上7,80里ばかり隔てたところに松嶋(現在の竹島)と唱える小島があり、この松嶋竹嶋両島とも全くの空島と思われるので、そのまま置いておく事は残念でならない。草木を刈り出し、漁業もすれば私の徳用(利益)のみならず、莫大な国益となると見込まれます。周防守様への冥加銀を差出す額は試に渡海してみて歩合を取り極めることとし、両島への渡海願いを内諾していただくように」としたためた。

岡田様のお許しを頂いて渡海出来るように橋本三兵衛に頼んでおいたところ、正月18日、江戸詰村井荻右衛門様より私宛に書状が送られてきた。竹嶋は日出之地(日本)であると極めがたいので、渡海計画はやめるように、とのことであった。予想に反した返事なので、残念でならず、橋本三兵衛方にこの書状を持参して、再度岡田様にお許しをいただけるよう頼んでおいた。しばらくして、橋本三兵衛に様子を尋ねにいったところ、江戸表よりの伝言は、竹嶋はやめて松嶋へ渡海を試してみてはどうだろうか…というものだった。松嶋は小島で見込みがないので、江戸表には松嶋へと名目を残しておき、竹嶋へ渡海を試してみてはどうか。

「事件の経済的背景」

濱田藩55,400石の財政は、藩主松平康任による老中首座になるための浪費などにより、困窮を極めており、その金策に困っていた家老岡田頼母は年寄松井図書、勘定方橋本三兵衛とともに、幕府による鎖国に反する可能性はあるけれど利益の大きい抜け荷交易(密貿易)を黙認しました。

「事件の政治的背景」

当時の濱田藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)は、文化9年(1812)奏者番となり、文政9年(1826)に老中職、そして天保5年(1834)には老中首座という政界のトップにまで上り詰めます。当時、康任と頭角を現し始めた水野越前守忠邦らと、主導権を争っていたのは大久保加賀守忠眞(おおくぼかがのかみただざね)でした。しかし、天保7年(1936)忠眞により、康任はその姻戚(いんせき・婚姻によってできた、血のつながりのない親戚)である仙石左京の起こした但馬出石藩のお家騒動「仙石一件」に連座させられて老中を辞職、代わって藩主となった康爵(やすたか)も陸奥国棚倉へ転封させられます。八右衛門らの起こした竹嶋事件についても責任を問われ、康任は永蟄居のまま天保12年(1841)江戸で亡くなります。その後、病死した忠眞、松平和泉守乗寛(まつだいらいずみのかみのりひら)に代わり、天保10年に水野忠邦は老中首座となり、天保の改革で知られる一時代を切り開くことになります。

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1870年、外務省は<鬱陵島(竹島)と独島(松島)は朝鮮の付属>と日本政府に報告しました。


 「朝鮮国交際始末内探書」

朝鮮国交際始末内探書

国立公文書館に所蔵してある『朝鮮事件』「朝鮮国交際始末内探書」に、竹島と松島は朝鮮付属であるとする外務省役人の見解がある。しかし、ここでいう松島は現在の竹島ではない

竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末

此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無之 竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事

外務省出仕

佐田白芽

森山茂

斎藤栄

[解説]

「この儀は、松島は竹島の隣島」とあるが、現在の竹島(旧・松島)を鬱陵島の隣島というには距離があり過ぎる(竹島から鬱陵島までは約92km。)また「これまで掲載セシ書き留めも無く」とあるが、松島(現・竹島)隠州視聴合記竹島松島之図など様々な歴史資料があるので、この「朝鮮国交際始末内探書」でいう松島は現在の竹島とは違う島であることが分かる。詳細は1905年、日本の独島編入は無効」② を参照の事。

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7年後(1877)、当時日本の最高権力機関であった太政官は、鬱陵島(竹島)と独島(松島)は、日本領土ではないと内務省に通達しました。

主要内容 <鬱陵島(竹島)と外一島(独島)の件は、本邦(日本)と関係がないということを肝に銘ぜよ。>

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内務省の通達 in 1877年

 「日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件」

内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されている。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」「外一島」を竹島(独島)であると主張しているが、これは現在の竹島ではない。同年文部省が発刊した『日本全図』には現在の竹島はなく、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)があるのみである。文部省のみならず2年前に「陸軍参謀局」が調査した図にも、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)の記載があるのみなので、「外一島」が現在の竹島でないのは明白である。

「アルゴノート島」「ダージュレー島」という島について。

同年文部省が発刊した『日本全図』



 

「陸軍参謀局」が「1875年」に作製した「亜細亜東部輿地図


 

見ての通り、どちらの「松島」「鬱陵島」です。本来は「鬱陵島」「竹島」です。「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)の影響で認識に間違いが生じています。内務省の通達が「1877年」同年の「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」には見ての通り現在の竹島はなく、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)があるのみです。鬱陵島を松島と誤認している。「竹島外一島」「外一島」を現在の「竹島/独島」であるとは言えない。地図の「竹島」は幻のアルゴノート島ですが、竹島を指すならこれになる。「外一島」が現在の竹島の旧名「松島」と言うなら「鬱陵島」の事になる。それに「竹島・松島」という名称があるわけだから、「外一島」なんて書かずに素直に「竹島外松島」と書くでしょう。通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されているわけですが韓国の言い張る、「竹島外一島」「外一島」「竹島/独島」であると言うなら「竹島(鬱陵島)外松島(竹島/独島)と言いたいのでしょう。しかし、地図の通りの認識で言うなら、「竹島(アルゴノート島)外松島(鬱陵島)となる。しかし、やはり松島という名称をしっかり使っているのなら「外一島」などと遠回しな言い方をするだろうか?同年文部省が発刊した「日本全図」には現在の竹島はなく、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)があるのみです。文部省のみならず2年前に陸軍参謀局が調査した図にも、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)の記載があるのみなのです。やはり「外一島」は現在の日本領の竹島のことではない。「竹島(鬱陵島)外一島」と本来の通り鬱陵島を竹島と使うなら、現・竹島は松島と使う。なら「外一島」とは「松島」とは言わない別の何等かの島を指しているのではなかろうか?鬱陵島の周辺で朝鮮の領土で言われるとしたら、「竹嶼」「観音島」だろう。仮に「外一島」「松島」のことを指して言っているのであれば、上図のように当時の「松島」「鬱陵島」のことを指している。ならば、「竹島」「幻のアルゴノート島」ということになります。

と、ここまでなら「外一島」の解釈はこうなりましたが、竹島と松島についての記述は後のページにもう少し出てきます。

 

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