「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

 古文書を見ても独島は韓国領土。」②

 

 

しかし日本側は、<外一島>が独島であるとは断定できないと反駁しています。

公文録 内務省之部 一 明治十年三月

 

<右ページ最初>「磯竹島一ニ竹島ト称ス、隠岐国ノ乾位一百二十里許ニ在リ、周回凡十里、山峻険ニシテ平地少シ…」(続いて この島の地形と、植物、動物等の物産)一部だけですがいくつか、「植物」「黄蘗」(キハダ、ミカン科の落葉高木。)「椿」(ツバキ、ツバキ科ツバキ属の植物)「樫」(カシ(樫、橿、櫧)とは、ブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称)「柊」(ヒイラギ(柊・疼木・柊木)は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木)「桐」(キリは、ゴマノハグサ科キリ属の落葉広葉樹)「雁皮」(ガンピはジンチョウゲ科ガンピ属の落葉低木)「栂」(ツガは、マツ科ツガ属に分類される常緑性の針葉樹)「竹・マノ竹」(タケとは広義には、イネ目イネ科タケ亜科のうち、木本(木)のように茎が木質化する種の総称)「胡 蘿蔔」(こ‐らふ、ニンジンのこと。中国での呼び方で、西域(胡国)から渡来したダイコン(蘿蔔)の意。こらふく。「蘿蔔」すずしろ、ダイコンの別名)「款冬」(かんとう、フキの別名)「獨活」(うど・独活、ウコギ科の多年草。山地に自生し、また野菜として栽培する。高さ2メートルに達する)「百合」(ユリはユリ目ユリ科のうち主としてユリ属の多年草の総称)「午房」(ゴボウ・牛蒡または牛旁、は、キク科の多年草)「茱萸」(ぐみ、グミ科グミ属の植物の総称)「虎杖」(イタドリ・虎杖、痛取とは、タデ科の多年生植物)「蒜」(ニンニク・蒜、大蒜、葫、ネギ科(クロンキスト体系以前の分類法ではユリ科)の多年草)「覆盆子」(覆盆子(ボクブンジャ)とはバラ科のラズベリーのことでキイチゴの一種)「動物」「海鹿」(アメフラシ(軟体動物門アメフラシ目の海産動物)の異名。)「猫」(ネコ)「鼠」(ネズミ)「山雀」(ヤマガラ、動物界脊索動物門鳥綱スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される鳥類)「鳩」(ハト)「鵯」(ヒヨドリ、スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属に分類される鳥)「鶸」(ひわ、スズメ目アトリ科ヒワ亜科の鳥の総称)「鳧」(けり、チドリ科の鳥)「鵜」(ウ、ペリカン目ウ科の鳥の総称)「鷹」(たか、タカ目タカ科に属する鳥のうち比較的小さ目のものを指す通称)「鷲」(わし、タカ目タカ科に属する鳥のうち、オオワシ、オジロワシ、イヌワシ、ハクトウワシなど、比較的大き目のものを指す通称)「四十雀」(しじゅうから、スズメ目シジュウカラ科の鳥)、等々。

「磯竹島、あるいは竹島と称す。隠岐國の北西120里(120里「約471km」ばかりのところに在る。周回はおよそ10里(10里「約40km」ばかりである。山は峻険にして平地は少ない。」

<左次ページ最初。動画のページ>「次ニ一島アリ松嶋ト呼フ、周回三十町許、竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里、樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス、永禄年中伯耆国会見郡米子町商大屋甚吉航シテ越後ヨリ帰リ台風ニ遇ウテ此地ニ漂流ス…」

「次に一島あり 松島と呼ぶ。周回は30町(周回30町「約3270m」ばかり。竹島と同じ船路に在る。隠岐を距る80里(80里「約314km」許である。樹竹は稀なり。また、魚獣(アシカ?)を産する。永禄年間に 伯耆国会見郡米子町の商人、大屋(大谷)甚吉が越後より帰る際に 台風に遇いこの地に漂流した。」遂に全島を巡視したところ、頗る魚貝に富んでいることを識り、帰国の日、検使の阿部四郎五郎に、そのおもむきを申し出、以後の渡海を申請した。安部氏が江戸に紹介して、許可書を得た。実に元和4年「1618年」5月16日のことである。

本来の距離は、隠岐から松島(現・竹島)「約157km」、竹島(現・鬱陵島)周回は「約56.6km」、松島(現・竹島)から竹島(現・鬱陵島)までは「約92km」「竹嶋絵図」の「大谷家由緒実記上」は、隠岐諸島と松島の距離は、70里(70里「約275km」としている。隠岐島と松島の距離は60里、80里、70里の記載もあり、絵図によって違いがみられる。1877年明治10年の太政官決定の公文録に収録された「磯竹島略図」は測量に基づくものではなく、享保年間の大谷家所蔵の絵図を写したとされている。当時のおよその距離です。

「磯竹島一ニ竹島ト称ス、隠岐国ノ乾位一百二十里許ニ在リ、周回凡十里、山峻険ニシテ平地少シ」で始まる冒頭の部分は、つづく植物、動物等この島の物産からみて現在の鬱陵島のことに間違いありません。続いて「次ニ一島アリ松島ト呼フ、周回三十町許、竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里、樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス、永禄年中伯耆国会見郡米子町商大屋甚吉航シテ越後ヨリ帰リ台風ニ遇ウテ此地ニ漂流ス」とあります。すなわち、「竹島外一島」の外一島は「松島」らしいということになります。そこで、次に「松島」が何を指すかが問題となります。一つの考え方は、韓国の主張の「鬱陵島(竹島)と外一島・松島(竹島/独島)「松島」は江戸時代の松島つまり「現在の竹島」とあるとし、結果的には「竹島である鬱陵島」「松島である現在の竹島」の両方とも日本領ではないと決定したとするものです。しかし、

「樹竹稀ナリ」 樹竹は稀(まれ)なり。稀なりだから多くはないだろうが「竹」がある。先の「鬱陵島」の植物の中にも「竹・マノ竹」とある。「韓国古地図の于山島は独島。」① でも説明したが、『太宗実録』の太宗17年(1417年)の項に「于山島」という名が初めて表れる。この時の「于山島」とは「現在の鬱陵島」を指すものと考えられる。「竹嶼(チュクド)だとする説もある。)この「太宗実録」に出てくる「于山島」なる島も「大竹」や芋を産するとある。「現・竹島」はある程度の植物は見られるが「竹」ほど高さのある植物は無い。人工的に植えられない限りはです。

元々、韓国に改造されるまでは「竹島」は強い海風と枯れた土壌のせいで、岩の間に植物が少し育つ程度で木は1本もありませんでした「竹」が育つには「十分な土壌」が必要です。もう少し細かい説明は韓国古地図の于山島は独島」を参照の事。

永禄(永禄は、1558年から1570年まで)年間に 「伯耆国」会見郡「米子」町の商人、「大屋(大谷)甚吉」が越後より帰る際に 台風に遇いこの地に「漂流」した。」

「伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子」の海運業者だった「大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった「鬱陵島に漂着した」。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、「1618年」に江戸幕府から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」「磯竹島」と呼ばれるようになった。

「大屋(大谷)甚吉」が漂着したのは「竹島(鬱陵島)だから、この「松島」「鬱陵島」を意味している事になる。前ページで述べたように内務省の通達が「1877年」同年の「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」には「鬱陵島」「松島」と記載している。「竹島」「アルゴノート島(竹島)ではなく、「鬱陵島」であるなら、結果的には明治政府が「竹島外一島」無関係としたのは「鬱陵島」だけのことで、現在の日本領土の竹島には論及していないという事になる。

「鬱陵島」「竹島」、「松島」と一島二名の混乱があり、「松島」「鬱陵島」を指す記述がもうしばらく続くのです。「Liancourt Rocks」リアンクール岩が呼び方が短くなまってリャンコ島と呼ばれていたこともありました。

「1875年」には既に呼ばれている。「陸軍参謀局」「1875年」に作製した「亜細亜東部輿地図」、「陸軍参謀局」は同年11月、朝鮮八道全図、大清一統輿図、及び英米が刊行した測量海図などを基に「朝鮮全図」を作成して、後年、農商務省図書館にも所蔵された。それと「1877年」に文部省が発刊した「日本全図」。それぞれの「松島」を見ると、

全部、「鬱陵島」のことを指している。これ以後もいくつか見ましょう。「1881年・「大日本府県分轄図 - 内務省地理局」

 

シーボルト図の座標からマーカーを付けました。位置を見れば明らかに「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)です。次に1891年・海軍海図95号 「日本本州九州及四国附朝鮮」 - 海軍作成」。竹島がリアンコールト岩になっている。「鬱陵島」「松島」だ。

1896年のイギリスの民間地図「日清両帝国 附露領・印度・ビルマ地図」・「発刊日不明図」「1896年1月27日発刊」。発刊日が明確な「日清両帝国 附露領・印度・ビルマ地図」では台湾は明確に「Japan」と記載してあるのに対し、発刊日が不明の同地図では台湾は日本の領土として扱われていないので、発刊日不明図は日清戦争以前のものであると推測される。ただし発効日不明図は「Argonaut I」は疑わしいと注釈があるのに対して、発刊日が明らかな図は「Argonaut I (Takeshima)」「Dagelete I (Matsushima)となっており存在しないアルゴノート島が堂々と掲載されている。


 

1898年の「河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図」。竹島は位置は少し上に行っているけど、隠岐と鬱陵島の間に来ている。「鬱陵島」「松島」だ。元々は一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた「鬱陵島」が、「松島」とも呼ばれる。

明治十六年(1883年)公文録 外務省三月四月

公第二七二号
我邦人朝鮮国所属
蔚陵島[我邦人竹島又は松島と唱ふ]へ渡航し、妄に伐採木切木者有之趣客歳七月中朝鮮政府より照会有之候。間即ち申禁可致告相答置候処、尚又今般別紙甲に通り照会有之候。就ては今後尚渡航者有之候ては彼政府へ対し交際上不都合のみならず、我政府の禁令人民に及ばざるを示すの体なき能はず。依て朝鮮政府へは竹添理公使を以って申禁可致●返翰差遣わし可申し候。且此未心得達ひ無之様乙号●禁●意を以て内務卿より各府県へ諭達相成候様仕度候。尤右諭達●蒙は近時京城辺乱に付、彼国政府と條約交換有之際にて同国使節も滞京中の事に候へは、其等に因縁候様に世上へ感触を未し候ては不都合に被存候間諭達文中にも該島に付朝鮮政府との議定せし年月を挿入致置、従来朝鮮国に属し特に今日に定むるものに非ざるを引証し、諭達の意は単に訣島の位置を明示し渡航を禁するに止まるものに有之候。右之次第に付、御発令の義も朝鮮使節帰国相成候上に有る。之候様仕度此瑕上申候也
明治十五年十二月十六日 外務卿 井山馨

太政大臣三條實美殿
追て右諭達に背き該島に至り私に売買を為す者有之時は、日韓貿易規則第九則に檬て処分し、又樹木を盗伐する者有之時は我刑法第三百七十三條に檬て処分すべきものと被存候。間右之趣は予め司法卿より各裁判所に内訓有之候様致度候。
竹島版図考壱冊為御参考差出候
上申之趣聞届候事
明治十六年三月一日

「解説」 この「公第二七二号」は1882年2月16日、外務卿の井上馨から太政大臣の三条実美へ鬱陵島の現状を踏まえて具申(ぐしん・詳しく申し述べること)したものである。この時期日本では、「鬱陵島」「竹島」もしくは「松島」という2つの異なる島名で呼ばれていたことが確認できる。(原文画像

1900年6月12日「鬱陵島調査概況および山林調査概況報告の件「在釜山 領事官補 赤塚正助」「機密京第17号」

「鬱陵島 는 韓國 의 강원도에 속한 도서로 松島 또는 竹島 라고도 칭한다」

「鬱陵島」は韓国の江原道に属した島嶼で「松島」または「竹島」とも称する。」

「鬱陵島調査概況および山林調査概況報告の件」

機密京第17号

小官は5月30日、警部、渡辺鷹次郎および当領事館所属巡査、高倉純双と腹心、岡登之進および佐藤潤象を連れて、材木調査のために内部の視察官、禹用影および釜山監理署主事、金冕秀とともに二十日、蒼龍号に便乗して鬱陵島に向かって出発して31日に到着、上陸した。翌日から3日間、島監裵季周の自宅で命じられた調査事項に対して双方が立ち会いまして日本人および島監を取り調べました。 残りの日は、山林とその他の雑務を調査して6日に帰途について翌日の7日に釜山に戻りました。 命を受けた調査、報告およびその他の雑項は次の便で送付します。 ここに別紙で鬱陵島の調査概況および同島の山林調査概況を送付しますので、閲覧するよう願ってこの点報告します。敬具

1900年6月12日

在釜山 領事官補 赤塚正助

在京城 特命全権公使 林権助殿

 

「別紙 1(機密京第17号 附属書)

鬱陵島 山林調査 概況

「鬱陵島」は韓国の江原道に属した島嶼で「松島」または「竹島」とも称する。 (東経130度8分2厘、北緯37度5分)釜山(プサン)で東北側で180マイル、境港では西北側で200マイル、隠岐では140マイル離れた所で、東西は、全6マイル程度で南北はおおよそ4マイル程度だが、海面を抜けば約4000尺、周囲はおおよそ20里程度だ。 石が多くて不毛で浅はかな土地や峰が過密でうっそうとした天然の森林で、日光を見ることができない所が半分を占めていて、老いた木が枯れていく所が今でも少なくない。 陸地で140マイル離れた小島で海底は深くて濃厚な藍色(あい色)を帯びている。波風がいつも荒っぽくて特に湾形をする所がなくて船舶が停泊するのには不都合だ。予想面積はおおよそ9331町2反歩(たんぶ。田畑の面積を反を単位として数えるのに用いる語。土地の面積の単位)で、その中大体6998町反歩は森林(1498町4反歩は渓谷と岩石で5500町歩(ちょうぶ。田畑や山林などの面積を町を単位として数えるのに用いる語は樹林のようだ)約2332町の反歩は木を植えることはできない土地であり、500町歩は切替畑地、1832町は反歩は不毛の地、その他になっている。山林は針葉樹と広葉樹が混ざっている天然林で、広葉樹が大部分を占める。 数種は山毛欅(欅(けや木)ニレ科の落葉高木。山野にみられ、高さは約30メートルにまで達する)、紅葉、●[?]、椿(つばき),梅の木(梅・うめ),柏(欅・けや木)、白丹(しらに[?]、モチ、桜、イチイ(櫟(くぬぎ)イチイ科イチイ属の植物。別名はアララギ。)、桑(クワ(桑)はクワ科クワ属の総称)、五葉松、榎(エノキ(榎)はニレ科エノキ属の落葉高木) 等で、その中でけや木が質が最も良好で●[?]やきめが緻密(ちみつ)だが、梅は良くない。その他は日本種と別に違わない。 運搬は傾斜が非常に激しいが海とそんなに遠くはなく、谿水(けいすい(渓水・谿水)または雨水に頼って付近の沿岸で搬出できる便利さがある。 過去にけや木を伐木した概況は明瞭ではないが、今から13年前、日本に大きな課題を出したという。 恐らく本願寺(本願寺は、各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。)建築用木材ではなかったのだろうかと思う。 その伐木した根元の部分を実際に見た。 その当時は日本人が1,000人も来て伐採したという。(以下省略)

公文録 内務省之部 一 明治十年三月

磯竹島略圖

隠岐からの距離が「八十里許(八十里 =約 315km)とあるのは、先に述べた通り「磯竹島略図」は測量に基づくものではなく、享保年間の大谷家所蔵の絵図を写したとされている。当時のおよその距離です。松島から磯竹島の距離は四十里許(四十里 =約 157km)隠岐から現・竹島は「約157km」「八十里」八十海里」とした場合は「八十海里 = 148.16km」「157km」に近くなるが、「海里」は、国際海里(正確に1852m)が世界中で使われている。この定義は、1929年にモナコで開かれた国際臨時水路会議で採用された。アメリカは1954年に、イギリスは1970年に国際海里を受け入れた。海里が使用されるずっと以前の、享保年間の当時のおよその距離であるため「海里」ではない。

 

「磯竹島略図」享保年間の大谷家の地図を縮写したもの。

韓国側では「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事(竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし)に、現在の「竹島」が含まれているとするが、それは字面だけです。明治十年の「公文録」には、島根県提出の「磯竹島略図」と文書が収録されているが、その文面には混乱があるからです。文書では既に述べた通り、「磯竹島一ニ竹島ト称ス」磯竹島を鬱陵島の事とし説明している。松島についても「次ニ一島アリ松嶋ト呼フ」と書いているが、内容が「永禄年中伯耆国会見郡米子町商大屋甚吉航シテ越後ヨリ帰リ台風ニ遇ウテ此地ニ漂流伯耆国・ほうきこく=現・鳥取県と、鳥取藩米子の大谷・村川両家が渡った「鬱陵島」の事を説明している。「2つの鬱陵島」が記述されている。

軍艦「天城」の調査 in 1880

日本政府は、混乱した鬱陵島の周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、「鬱陵島」に該当する島を「松島」、今日の「竹島」に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。

調査後、外務省書記官の北澤正誠が「竹島考証」を著した。「於是竹島松島一島両名或ハ別ニ二島アルノ説紛紜決セス」と記している。「紛紜(ふんうん・物事が入り乱れるさま。)「紜」(訓読み(漢字を、その意味にあたる日本語の読み方で読むこと)みだれる)「ここにおいて1つの島に竹島松島という2つ名があるとも、あるいは別の島につけられたものだという説が入り乱れていてはっきりしない」と読み下せます。

北沢正誠竹島考証

元録十二年竹島ノ地朝鮮ノ者ト極リシ後ハ我人民又此島ヲ覬覦スル者ナカリシニ百余年ノ後石州浜田ノ民八右衛門ナル者アリ 江戸在邸ノ吏ニ説テ其黙許ヲ受ケ竹嶋ニ漁業ヲ名トシ陰ニ皇国産ノ諸品ヲ積去テ外国ニ貿易セルヲ以テ忽チ法憲ニ触レ厳刑ニ処ラル 此ヨリ後又此島ノ事ヲ説ク者無シ 皇政維新ノ後明治十年ノ一月ニ及ヒ島根県士族戸田敬義竹島渡海ノ願書ヲ東京府ニ呈ス 六月ニ及ヒ難聞届旨指令アリ 此ヨリ後復タ竹島ノコトヲ言フ者無シ 其後奥州ノ人武藤一学下総ノ人斉藤七郎兵衛等浦塩斯徳ニ往来シ竹島ノ外別ニ松島ナル者アリト唱ヒ瀬脇寿人ニヨリテ渡海ノ事ヲ請フ 於是竹島松島一島両名或ハ別ニ二島アルノ説紛紜決セス 遂ニ松島巡島ノ議起ル 甲乙丙丁ノ説ノ如シ 雖然其事中止セリ 明治十三年天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ其地ニ至リ測量シ始テ松島ハ欝陵島ニシテ其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ 然ルトキハ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年稱スル所ノ竹島ニシテ古來我版圖外ノ地タルヤ知ルヘシ

「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年稱(称)スル所ノ竹島ニシテ古來(古来)我版圖(図)外ノ地タルヤ知ルヘシ」

「版図・はんと」「版」は戸籍、「図」は地図の意。)一国の領域。領土。

竹島考証をまとめた北沢正誠は、「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年稱スル所ノ竹島ニシテ古來我版圖外ノ地タルヤ知ルヘシ」として、「竹島」とも「松島」とも呼ばれている島が朝鮮の「鬱陵島」であることを結論した。太政官指令の「外一島」は、江戸時代の松島、つまり今日の竹島を意図していなかったことが解る。

仮に今日の竹島を版図(領土)外としたとしても1905年の編入の効力には何ら影響を与えないでしょう。日本領でなければ自動的に朝鮮領になるというものではないでしょう。

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結論・日本の古文書も、独島は朝鮮領土であり、日本の領土ではないと認めています。ですから、独島が日本の固有領土という日本の主張は完全な虚偽であります。1905年、日本はこのような歴史を隠蔽しながら、韓国領独島を島根県に強制編入したのでした。

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“日本の古文書も、「竹島/独島」は朝鮮領土であり、日本の領土ではないと認めています”

認めていません。既に述べたように、「竹島外一島」無関係としたのは「鬱陵島」だけのことで、現在の日本領土の竹島には論及していない

「大韓帝国」以来の「領土認識」は、「日本の統治時代が終わった後も」韓国の領域は「竹嶼」までと韓国自身が言っている。「現・竹島」韓国の領土ではないと認めています

島根県に強制編入したのでした”

竹島の島根県編入は1905年02月22日決定。その頃(1905年2月22日)の韓国は歴然とした独立国「大韓帝国」である。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって、日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、1905年11月17日。従って強奪でも強制でもなんでもない。「韓帝国」は主張できる立場にあった。

日韓議定書

韓国は「ロシアとの日本海海戦をスムーズに遂行するため、竹島に望楼(ぼうろう・遠くを見渡すためのやぐら。)建設の必要性が浮上し、日本政府は竹島を強引に編入した」と主張する。しかし竹島編入をするまでもなく、日韓議定書では軍事施設を作る事が許されている。

「第4条」 第三国の侵害に依り若くは内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取るへし而して大韓帝国政府は右大日本帝国の行動を容易ならしむる為め十分便宜を与ふる事。 大日本帝国政府は前項の目的を達する為め軍略上必要の地点を臨機収用することを得る事

つまり竹島編入と竹島望楼建設は関係が無いのである。

 

 

 

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