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「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

 「1905年、日本の独島編入は無効。」①

作成日 2011年11月26日

 

1900年、大韓帝国は勅令第41号を発布し、独島を石島と表記して鬱島郡所属の島であることを宣布しました。

「勅令第41号の主要内容」区域は鬱陵全島と竹島、石島(=独島)を管轄する。

真実 観音島にはカクセ・ソム、島項という名前がさらに二つもあったので、観音島を石島と呼ぶ理由はありませんでした。そうなると石島に該当する島は独島しかありません。

結論 韓国は1900年、官報に勅令第41号を掲載し、世界に向けて独島が韓国の所属であることを宣布しました。

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「大韓帝国勅令41号」

鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件

第一条

鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にする事

第二条

郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する

大韓帝国時代の、公式な「領有権の主張の重要な証拠」と言われている、この「勅令41号」ですが、何故か急に「石島」という、それまで登場したことのない島が出てきます。「緯度」「経度」も不明です。島の大きさも全然解らない島。韓国側では、「独島(ドクド)「石島(ソクド)「ドク」「ソク」が発音が似ているから、この「石島」こそ、独島に違いない、と主張しているようです。

「1906年(明治39年)3月、島根県官吏による竹島視察団により、鬱陵島郡守を通じて「竹島編入の事実を知らされた」にも関わらず、大韓帝国は状況を調べるよう指令を送ったきり「抗議した形跡がない。」そればかりか、直後の同年7 月頃、「統監府」から鬱島郡に所属する島嶼と郡庁設置年月を照会された際に「その郡の所管島は「竹島」「石島」で、「東西が六十里」「南北が四十里」で、合わせて二百余里だという。」など「該郡所管島는竹島石島오東西가六十里오南北이四十里니合二百餘里라고하였다이다」と鬱陵島から約92km程離れた「竹島」「鬱島郡の範囲から除外」する形で公式回答した。(皇城新聞「鬱島郡の配置顛末」、大韓毎日申報)

「韓国統監府」 日韓合邦前の日本の韓国の(大韓帝国)設置機構。1905年第2次日韓協約により韓国を「保護国」とした日本が京城(京城は、ソウルの旧称。)に設置。

 「皇城新聞1906年7月13日」日本政府の問いに韓国政府が返答した事を伝える報道。

「皇城新聞1906年7月13日」

鬱島郡の配置顛末(顛末・てんまつ・一部始終)

統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡廳は台霞洞に置き、該郡所管島は竹島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。

上記の新聞記事では鬱陵島の東西南北どの方向に「石島」という島があるのか解りませんが、「東西が六十里で南北が四十里」という管轄範囲が示されているので、「現・竹島」がこの範囲内か範囲外かで、「石島」「現・竹島」なのかどうかが解ります。

韓国サイト「NAVER」で変換したら、「60里=23.563636km」 「40里=15.709091km」「東西60里(約24km)「南北40里(約16km)という事ですね。

ちなみに、日本は竹島の中心から鬱陵島の中心で測っているので、外務省のHPでは「約92km」と表記している。「独島博物館」「八道総図」のレリーフの「87.4km」は、鬱陵島と竹島の距離を両島の一番近いところで測ると「約87km」になる。表記の違いはそのためです。「東西が六十里(約24km)で南北が四十里(約16km)を、地図上で距離を測る事が出来るサイト、「みんなの知識【ちょっと便利帳】」で測ってみました。

「東西24km」「南北16km」の範囲切り抜き。

 この範囲が「東西が六十里で南北が四十里」です。

この範囲内で鬱陵島の周辺にある島は「観音島」「竹嶼」ですね。明らかに「現・竹島」は入っていませんね。「竹島」「石島」がこの範囲内ですから、「竹嶼」の韓国名は「竹島」ですから素直に考えれば「竹島」「竹嶼」ですね。そうなると、「石島」「観音島」ですね。

石柱の上に観音島、海上にそびえ立つ

1928年9月8日東亜日報

島嶼巡礼 鬱陵島方面(8) 避難処あり、ここが藥草東山 通路は数十尺の藺草 俗人は住めない海上の天国

石柱の上に観音島、海上にそびえ立つ

その横には、高さが三百五十尺の切り立った島があるが、四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を「観音島」と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。そこから少し船で行ったところに竹島という島があるが、この島は、鬱陵島に次ぐ島司がいる島だという。この島もまた四辺から見れば○○二百五十余尺の絶壁で、船を着ける所としては窟のような岩の下しかない。この島は周囲が10余里で、面積5万4000坪、二尋(ひろ)三尋になる多くの竹が取り囲み、その中は雑木が生い茂っている。

「四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。」

もしかしたら、「観音島」「石島」と呼ばれた由来はここにあるのかもしれませんね。名前の由来はハッキリしませんが、範囲内に現・竹島が含まれないわけですから、どの道「石島」日本領土「竹島」ではないことは明確です。

杉野洋明 極東亜細亜研究所

実際に地図を用いて「東西が六十里で南北が四十里」を確認して見ましょう。当時の韓国の里法では1里=0.2km、若しくは1里=0.4kmですが、ここでは、0.4kmと仮定します。地図は(公平を期す為)韓国で使用されている英文地図を使いました。鬱陵島周辺の赤い枠内が、「東西が六十里で南北が四十里」になります。

 

上記の画像の通り、「東西が六十里で南北が四十里」では、「現在の竹島は領域外」ということが明白に分かります。要するに、石島はこの赤枠の内側に存在する島になるので、当然、石島と「現・竹島」は別物なのは明白ですよね。

石島は観音島という推測

現在「観音島」と呼ばれている島。「1909年」に『韓国水産誌』が発刊された。当時は「鼠項島」と呼ばれていた事が「鬱陵島全図」で分かる。「鼠項島」は音読みで鼠(そ)項(こぅ)島(と)である。これは韓国が主張する「石島(ソクド)」と発音が酷似している。

韓国側では、「独島(ドクド)」「石島(ソクド)」「ドク」「ソク」が発音が似ているから、この「石島」こそ、「竹島/独島」に違いない、と主張しているようですが、発音の事を言うなら、「鼠項島」「ソコウト」「ソクド(石島)と似ている。「ドク」「ソク」よりも似ている。

「観音島には島項という名前」とあるが、「石島」「島項」なのであろうか?「1909年刊の海図」そこでは島項が鼠項島[So moku Somu]と表記され、これを伝統的な漢文の発音表記法の反切で読むと、鼠項島(「Soku=石」島)は石島と読めるからだ(鼠[S(o)]の最初の母音o と、項[(m)oku]の最初の子音m が除かれ、鼠項の「S(o)(m)oku 」「Soku=石」となって石島となる)。何故、「島項」と命名したのだろうか。それは鬱陵島検察日記の中で、「島項」「形、臥牛のごとし(形如臥牛)」、「稚竹叢あり(則稚竹有叢)としたことでも明らかだ。鼠項島[So moku Somu]は、これを韓国語として読むと「牛の首(項=うなじ)の島」となる。「石島」は、「鼠項島(島項)を反切で読み、漢音で表記したものと言えるのである。

海図306号「竹邊灣至水源端」部分。

「島項」と命名したのは、島の頂上に稚竹が生えていることから、臥せている牛の項(うなじ)と見立てたからである。その島項が「勅令第41号」では「石島(ソクト)となるのは、「鼠項島」と表記して[So moku Somu]と訓読し、それを音読で表記したのであろう。それは反切で鼠項島を読むと、石島となるからだ。欝島郡の行政管轄区域で属島とされた二島は、竹嶼と島項(鼠項島=石島)で、「独島(竹島)とは関係がなかったのである。 従って、東北アジア歴史財団が主張するような「大韓帝国が1900年10月25日、勅令第41号で独島を欝陵郡の管轄区域に規定している」事実はなく、「1905年の日本の一方的な島根県編入措置は、当然、無効となる」事実もなかった。「竹島の不法占拠を続ける韓国側」の詭弁こそ、無効なのである。【付記

 

「1907年」安鍾和・柳瑾.著「初等大韓地誌」小学校教育地理教科書。

大韓帝国の位置。北緯三十三度十三分 四十三度二分 東経一百二十五度~三十度(百三十度)五十八分。

北緯三十三度十三分四十三度二分 東経一百二十五度五分~三十度(百三十度)五十八分。東限は慶尚北道鬱島郡鬱陵島。

「1907年」張志淵.著「大韓新地志」

我国の位置は、アジアの東部に在りて…、極東における我国接境は豆満江とまんこう・中国と北朝鮮との国境にある白頭山を源流とし、中国、北朝鮮、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ国際河川)にして東経百三十度五十八分…、我国の境界は…「日本對馬島」と相對(相対)…。

「1909年」 鄭寅琥.著「最新高等大韓地誌」

「東南は日本對馬(対馬)島と相對(相対)北緯三十三度十五分 四十二度二十五分に至る・東経百二十四度三十分 百三十度三十五分に至る。東は慶尚、南道、鬱島郡、鬱陵島とあるので、鬱陵島は入れているように思えるが、経度では何故か入っていない。

「1945年」慶北地理學會「地理学中学校(中等地理)

「朝鮮の位置」極東 東経一三〇度五六分(●陵島東端)「陵島」と文字が抜けているが、東経130度を見れば「鬱陵島」「地理学中学校(中等地理)は教科書で、大邱都市(大邱広域市(テグ)は韓国南部の都市で、慶尚北道の道庁所在地)の韓国の会社「以文社(らしい)によって出版されて、手書きによるもので、何らかの謄写版(とうしゃばん・孔版印刷の一種)機械で印刷されたようです。

「朝鮮常識問答」(1946年初版)

赤文字の訳朝鮮 지도상에 있는 위치는 어떠합니까(朝鮮の地図上に於いて位置はどの様なのか)」 「반도만으로는(半島だけでは)」 「동경130도41분22초 로부터 124도18분35초 까지(東経130度41分22秒から124度18分35秒まで)」 「북위 34도 17분 16초 로부터 43도 0분 36초 까지요(北緯34度17分16秒から43度0分36秒まで)」 「도서를 넣으면(島嶼を加えれば)」 「동경130도 56분 23초 로부터 124도 11분(東経130度56分23秒から124度11分)」 とある。

「朝鮮常識(1948年)

「島嶼를 넣어서(島嶼を入れて)「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島/チュクド)とある。

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“1900年、大韓帝国は勅令第41号を発布し、独島を石島と表記して鬱島郡所属の島であることを”

「勅令第41号の主要内容」区域は鬱陵全島と竹島、石島(=独島)を管轄する。”

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しかし、実際は1900年以後の範囲を見ても、全く「現・竹島」は入れられてはいない。「1945年」が日本の統治時代からの解放ですが、それ以後もやはり「現・竹島」は入っていない。「東西60里(約24km)「南北40里(約16km)という管轄範囲が示されているが、その範囲内にも入っていない。

 

結論 「石島」は明らかに現在の竹島/独島」ではない。

 

 

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