「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

 「1905年、日本の独島編入は無効」④

 


本郡所属独島

「報告書号外」 観察使署理春川郡守李明來が、4月29日付で議政府参政大臣に提出した。内容は3月29日に江原道観察使に報告した内容と同文。

本郡所属独島 

제목 울릉도에 입항한 일본인의 독도 영유권 주장과 인원 및 행태 보고

문서번호 報告書 號外

발송일 光武十年四月二十九日(1906년 04월 29일)

발송자 江原道觀察使署理春川郡守 李明來

수신자 議政府參政大臣 閤下

 

鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太郞 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八郞 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望.

指令 第三號

來報 閱悉이고 獨島便地之說은 令屬無根니 該島形便과 日人如何行動을 更爲査報 事.

五月十日

江原道觀察使署理春川郡守 李明來 議政府參政大臣 閤下 光武十年四月二十九日

タイトル 鬱陵島に入港した日本人の独島領有権の主張の人員および動作報告

文書番号 報告書号外
発送日 光武十年四月二十九日
(1906年04月29日)
発送者 江原道観察使署理春川郡守 李明來
受取人 議政府参政大臣 閣下

 

鬱島郡守 沈興澤 報告書を内開するに、「本郡所属独島」は外洋百余里の外にあるが、本月初四日辰時量に輪船一隻が郡内道洞浦に来舶した。そして日本人官人一行が官舍に到り、独島が今日本の領地故に視察に来到したという。その一行とは日本島根県隠岐島司の東文輔及び事務官の神西田太郞、税務監督局長 吉田平吾、分署長警部 影山巖八郞、巡査一人、会議一人、医師、技手各一人、其外隨員十余人が、戸数や人口、土地、生産の多少についてまず質問し、さらに人員及び経費が幾らかについて質問したという、諸般事務を視察して記録したことを報告し、照会します。

指令第三号

来報●閲悉「閲」は書き物の内容などを調べる、読むの意。「悉」は事々の意。)で独島領地の説は令属無根である。該島の形便(地理的状況)と日本人の行動を更に捜査し報告する事。

五月十日

江原道観察使署理春川郡守 李明來 議政府参政大臣 閣下 光武十年四月二十九日

沈興澤報告は大韓帝国が「勅令第41号」に基づいて「独島」「正確に統治範囲内として認識・管理」していたことを示す証拠だ、とする主張。しかし、「大韓帝国勅令41号」「鬱陵島を鬱島と改称し…区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する事」とあるが、「石島」「独島」と主張しているが、たとえ現地呼称が「独島」であっても「石島」「独島」なら政府への報告には法令上の名称である「石島」を用いるはず。「外洋百余里」と位置についての説明も要らないはず。それなのに「独島」という呼称を用い、「外洋百余里」にあるとわざわざ説明しているところをみると、沈興澤報告は勅令とは無関係だ勅令の「石島」「竹島/独島」ではない。

この「本郡所属独島」が現在の「竹島/独島」であるなら、前ページでも述べたように、不思議なのは「沈興澤」鬱島郡守がこの時点で「竹島/独島」を自郡の所属と認識していたことである。やはり、日本人が現地の朝鮮人を雇って「竹島/独島」に漁に出かけていたので、鬱陵島の住人が行き来するのだから「竹島/独島」は鬱陵島の附属島なのだと思っていたのだろうか?しかし、個人が韓国の領土であったと信じていたとしても、その事実は国際法上、意味があるものではない。

1903年」5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。「1904年」には山口県の岩崎という人物らが「鬱陵島」の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。

思っているだけでは領地にはならない。元々、韓国は竹島に対して実効支配をしていないのである。最初に竹島を実効支配したのは日本である。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたことを意味する。

それに、既に述べたように「1906年(明治39年)3月、島根県官吏による竹島視察団により、鬱陵島郡守を通じて「竹島編入の事実を知らされた」にも関わらず、大韓帝国は状況を調べるよう指令を送ったきり「抗議した形跡がない。」しかも、直後の同年7 月頃、「統監府」から鬱島郡に所属する島嶼と郡庁設置年月を照会された際に「その郡の所管島は「竹島」「石島」で、「東西が六十里」「南北が四十里」で、合わせて二百余里だという。」など「該郡所管島는竹島石島오東西가六十里오南北이四十里니合二百餘里라고하였다이다」と鬱陵島から約92km程離れた「竹島」「鬱島郡の範囲から除外」する形で公式回答した。回答で、「その郡の所管の島は「竹島」「石島」で、「東西が六十里」「南北四十里」。合わせて二百余里。」とした事実は、「沈興澤」「本郡所属の独島は、外洋百余里の外に在る。」とし、「独島」を鬱島郡所属とした報告を全面的に否定するものであった。細かいところは  「1905年、日本の独島編入は無効」① を参照の事。

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当時、韓国が日本に直接抗議をしなかったので、韓国は結局日本の独島編入を「黙認」したのだと日本は主張しています。

しかし1904年以降、韓国は日本の侵略を受けており、直接抗議ができない状況に置かれていました。

乙巳勒約高宗皇帝

「乙巳勒約」 「第二次日韓協約」は、日露戦争終結後の「1905年(明治38年)の11月17日に日本と韓国が締結した協約。これにより韓国の「外交権」はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。日韓保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約、また、日本によって強制で結んだ条約という観点からは「乙巳勒約」とも呼ばれる。締結当時の正式名称は日韓交渉条約。

英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず 韓国主張崩れる

以下は、東アジア「反日」トライアングル、古田博司著 文春新書より引用。

日韓の間で歴史をめぐってどんな論争があったかということは、意外と一般には知られていない。

たとえば、韓国側はいまでも日韓併合は不法だったといい、これを学会では「日韓併合合法不法論争」と評している。

そこでこの問題をめぐって岩波の『世界』誌上で日韓の学者がかつて争ったことがあったが決着がつかず、2001年の11月16日に、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議が開かれることになった。

これは韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもとに、韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。

韓国側はもちろん、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、そのために国際学術会議を持ったのであり、それを謝罪と補償の要求の根拠にしたかったことは明白であった。

そしてそこにはアメリカ、イギリス、韓国、それから日本の学者が集まり、日韓併合の歴史をどう考えるかということで論争が行なわれたのである。

この様子は、当時、『産経新聞』の2001年11月27日の記事ぐらいでしか公表されず、一般の目にはほとんど触れなかった。が、これはとても大きな、重要な会議だったのである。

韓国側はまず、いかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張した。ところが、国際法の専門家でケンブリッジ大学のJ.クロフォード教授が強い合法の主張を行なったのである

それは当時の『産経新聞』の記事によると、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際秩序の観点からその国を当時取り込むということは当時よくあったことであって、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかったという主張であった。

当然、韓国側はこれに猛反発し、日本に強制されたということを主張したわけだが、同教授は、「強制されたから不法という議論は第一次大戦(1914~18年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」と、一喝した。

その会議に参加した友人の学者によると、この結果、韓国側は悄然と肩を落として去っていったという。

韓国側のもくろみは失敗に終わったのだが、日本では当時この様子はほとんど報道されることがなかった。

そして、この会議に出席した県立広島大学の原田環教授が、最近、この点に関して非常に新しい実証的な研究成果を上げられた。

それは、「青丘学術論集」という論文集の2004年の第24集に掲載されたもので、「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」という題の論文である。

この論文によれば、第二次協約の調印のときに高宗という王と、その周りに5人の大臣たちがいたが、その5人の大臣たちが、すべて終わった後に王に上奏文を提出した。

その史料はこれまで埋もれていて、研究されたことがあまりなかったのだが、原田教授はそれを初めて評価され、同協約の締結に関して韓国の高宗皇帝が、日本側の協約案を修正し調印する方向に、すなわち交渉妥結ということで一貫した行動をとったということを実証された。

したがって、第二次日韓協約は韓国の高宗皇帝の意図に沿って行なわれたものだったということが分かってしまったのである。

これは朝鮮史研究上の非常に大きな成果であって、これからこの線に沿って研究も行なわれていくと思われる。

英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず。韓国主張崩れる

産経新聞2001年11月27日

【ソウル26日=黒田勝弘】

日韓の歴史認識問題で大きな争点になっている。

日韓併合条約 (一九一〇年)について合法だったか不法だったかの問題をめぐり、このほど米ハーバード 大で開かれた国際学術会議で第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、国際 舞台で不法論を確定させようとした韓国側のもくろみは失敗に終わったという。

会議参加者によると、合法論は国際法専門のJ・クロフォード英ケンブリッジ大教授らから出され「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかったと述べた。

また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(一九一四-一八年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と主張した。

この学術会議は米ハーバード大アジア・センター主催で十六-十七日開かれたが、韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し韓国の学者の主導で準備された。これま でハワイと東京で二回の討論会を開き、今回は韓日米のほか英独の学者も加えいわば 結論を出す総合学術会議だった。

日本からは海野福寿・明大教授や笹川紀勝・国際基督教大教授、原田環・広島女子大教授ら五人が参加したが、海野教授の「不当だが合法」論や笹川教授の不法論など見解 が分かれた。

韓国側は「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している李泰鎮・ ソウル大教授はじめ全員が不法論で、会議をリードしようとした。

しかし日本の原田教授は併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約(一九〇五年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は条約に賛成し批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介し注目された。

併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出されたという。

日韓併合条約については韓国や北朝鮮からはいまなお執ように不法論が出され謝罪や補償要求の根拠になってきた。

日韓国交正常化の際も激しく対立したが、合法・不法の結論は出さず「今や無効」との表現で国交正常化(一九六五年)にこぎつけた経緯がある。

 

協約締結時の高宗皇帝

李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告されている。また、高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。日本側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」青丘学術論集24, 2004年4月)

協約締結後の高宗皇帝

協約締結時に「交渉妥協」を主張した高宗であったが、締結後に無効論に転じた。第二次日韓協約の無効を訴えるイギリス宛親書後、高宗は第二次日韓協約締結の不当性を国際社会に訴えようと努力したが、当時の国際情勢によって皇帝の密書などは支持を得られなかった。高宗の第二次日韓協約無効を主張する書簡には1906年1月29日に作成された国書、1906年6月22日にハルバート特別委員に渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領に送った親書、1907年4月20日ハーグ特使李相卨への皇帝の委任状などがある。

「第二次日韓協約の無効を訴える高宗のイギリス宛の親書」  「ドイツ皇帝に送っていた高宗「乙巳条約無効」密書」

 

ハーグ密使事件

「ハーグ密使事件」 1907年、韓国の李太王が、ハーグで開かれた第2回万国平和会議に日本の侵略だ、と訴えようとして密使を送った事件。しかし、会議への参加を拒否された。

親書の内容」

事件に先立つ1907年1月16日、『大韓毎日申報』は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。

  1. 1905年11月17日に日本使臣と朴斉純が締結した条約を認めていないし、国璽(国璽(こくじ)とは、国家の表徴として押す印章または印影)である。外交文書など、国家の重要文書に押される。)も押していない。
  2. この条約を日本が勝手に頒布することに反対した。
  3. 独立皇帝権をいっさい他国に譲与していない。
  4. 外交権に関連した必要の無い条約は強制であり、内政に関連したものも全く承認していない。
  5. 韓国統監韓国統監府は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。の駐在を許しておらず、皇室権を外国人が行使することを寸毫たりとも許諾していない。
  6. 世界各国が韓国外交権を共同で保護することを望む。

「独立権」 国家が他国の干渉・拘束を受けないで内政・外交を処理する国際法上の権利。

この「独立帝権を他国に譲歩したことはない」という所で、「独島も独立帝権、“主権の範囲”」に入っていると言うのは、「石島=独島」を管轄する、「日本は1870年に独島を朝鮮の付属」と言っていた「1870年」朝鮮国交際始末内探書の事や「1877年には独島を日本領土の外と定めた公式文書を残しているからです。」と言っている、「竹島外一島」の事などを前提として言っているのだろうけど、既に説明した通り、「石島」は明らかに現在の竹島/独島」ではない。「朝鮮国交際始末内探書」でいう「松島」「現在の竹島」とは違う島である。明治政府が「竹島外一島」無関係としたのは「鬱陵島」だけのことで、現在の日本領土の竹島には論及していない。「統監府」から「鬱島郡に所属する島嶼」を照会された際の回答が「独島」「鬱島郡所属」とした報告を全面的に否定するものであった。

なので、「竹島/独島」韓国の主権の範囲ではありません

委任状(親書)の偽造疑惑」

「ドゥ・ヨン」ホテルの位置には現在「李儁烈士記念館」が建てられており、皇帝高宗の「委任状」の写真が飾られている。これには「大皇帝」という文字の下に自筆署名と、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。しかしこの署名や印について、イ・ヤンジェ(李儁烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)や印刻専門家のチョン・ビョンレ(古岩篆刻芸術院院長)「偽造された可能性が高い」と指摘している。ソウル大国史学科の李泰鎮は、「任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状ではないか」と推測している。オランダ国立文書保管所の担当者によると「3人がハーグで皇帝の委任状を提示したという記録はまったく存在していない」と語っており、委任状の存在自体の確認が正式には取れない状態である。

ハーグ密使事件100周年 まともな「信任状」もない旅立ち

2007年7月8日 朝鮮日報より抜粋。

ハーグ密使事件

万国平和会議は既に10日前に開幕していた。彼らの足取りは重かったが、取り急ぎ、みすぼらしい「ドゥ・ヨン」ホテルに宿所を定めた。そして、その翌日に彼らは「皇帝の玉璽が押された信任状」を手にし、会議への出席を要求したとされている。

しかし、今回の取材で会ったオランダ国立文書保管所の担当者・ハイデブリンク氏は、本紙とのインタビューで意外な事実を指摘した。

「3人がハーグで皇帝の信任状を提示したという記録はまったく存在しない」

「ドゥ・ヨン」ホテルの位置に建てられた「イ・ジュン烈士記念館」。訪ねる人もほとんどいないこの場所には、「信任状」の写真がきれいに飾られている。この写真は、イ・ジュンがこのホテルの部屋で亡くなってから1カ月後の1907年8月、米ニューヨークで発行された雑誌『インディペンデント』に掲載されたものだ。4月20日付となっているこの信任状には、3人の特使を派遣し、韓国の外交権回復に当たらせるという内容が記されている。左側には「大皇帝」という文字の下に手決(自筆署名)があり、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。以来、この写真は多くの書籍に転載された。

信任状の御璽を偽造

しかし、この信任状に押された皇帝の印章は、偽造の可能性があるとの主張がソウルで提起された。書誌学者のイ・ヤンジェ氏(イ・ジュン烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)「信任状に押された皇帝の印章である御璽が、本物ではないことは明らかだ。皇帝のほかの親書と比べて見ると、印刻の字体が大きく異なり、印章を押したのではなく、筆で描かれたもので、にじんだ跡が見える」と指摘した。

また、印刻専門家のチョン・ビョンレ氏(古岩篆刻芸術院院長)も写真を見た後、「“帝”の字は、上の部分の画の長さや間隔がそろっておらず、“璽”の字も真ん中の文字の切れ目がないことから見て、ほかの文書にある御璽とは完全に異なっている。非常につたない実力で作成した模作に過ぎない」と断定した。

だが、御璽が偽造とは一体どういうことなのだろうか。ソウル大国史学科の李泰鎮(イ・テジン)教授は「わたしが見ても信任状の御璽や手決に違和感が感じられる。しかし、皇帝の命もないのに特使として活動することはできない。そのため、信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状と見るべき」と推測した。

つまりこれは、日本軍が宮中を取り囲んだまま、水も漏らさぬほど厳重に皇帝を監視していたため、白紙の信任状を渡したということだ。事をしくじった場合、善後策を講じることのできなかった高宗としては最善の防御策であり、目前に迫っていた万国平和会議を前に焦っていた密使らにとっても、ほかに選択肢がなかったのだろう。

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ところで日本帝国主義は、1907年7月に高宗を強制退位させ、韓国軍を強制的に解散させました。

このような強圧的な日本の政策により、韓国は日本に直接抗議することができなかったのです。

第三次日韓協約

「第三次日韓協約」は、「1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。

ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監韓国統監府は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。

 

安重根伊藤博文

強圧的に行われた日本の独島侵奪は、基本的に無効です。

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「伊藤博文」は、明治期の政治家。元長州藩士、松下村塾出身。1841年生まれ。明治18年(1885年)には初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代韓国統監などを歴任。1909年10月26日、ハルビン駅で朝鮮独立運動家の韓国人「安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。

「ハルビン市」鉄道によりシベリアへ通じる東北アジアの交通の枢軸であるハルビンは、中国でもっとも北部に位置する黒龍江省の省都。

韓国は日本の総理大臣だった「伊藤博文」を暗殺した「テロリスト」「安重根」「英雄」扱いしている。

(『世界で一番間抜けな朝鮮人テロリスト安重根』)

安重根

2011年10月26日、安重根が伊藤博文を暗殺した日、「反日の英雄」安重根が拳銃で伊藤博文を暗殺する記念造形物の除幕式が行われた。

「安重根は「テロリスト」だった~しかし、すべてのテロが悪というわけではない」

2011/12/23(金) 韓国時事IN

ハンナラ党が韓米自由貿易協定(FTA)を突然批准すると民主労働党キム・ソンドン議員が国会本会議場で催涙弾を爆発させた。ハンナラ党と御用メディアは調子に乗って彼に「テロリスト」というラベルを貼った。催涙弾一つで韓米FTA批准を防げるとはキム議員自身も考えなかったろう。

それなら何の実益もないことを知りながら民主労働党(今は統合進歩党)に‘過激’なイメージを植えつけたキム議員の行動は愚かだった。彼はやりすぎた。ところが彼が国会で行ったことは果たしてテロだろうか?その催涙弾のため涙を流した国会議員はいたが、ケガしたり死んだ議員はひとりもいなかった。もしその行為がテロならば、夜道を歩いた女性が路地であった痴漢の頬を叩いてもテロであろう。実際、零下の天気で市民に水大砲を撃った警察の行為こそテロに近かった。

テロは本来、国家暴力と密接な関係にある。この言葉が広く使われ始めたのはフランス革命期にロベスピエールらが‘恐怖(=テロ)政治’を実践した後だ。今日、テロは政治的・軍事的弱者が大義のために行使する暴力を主に示す。地球的次元で見れば、この頃のテロの主体はたいていイスラム原理主義者などで、その対象は米国をはじめとする西側国家の政府機関や市民らだ。

2001年9・11事件がちょうどこの脈絡の代表的テロだ。そのようなテロは当然批判されなければならず、その主謀者ビン・ラディンが隠れて生きたアフガニスタンだけでなく、そのテロと何の関連がないイラクもその何百倍もの代価を支払った。

ところがすべてのテロは悪だろうか?テロという言葉が否定的ニュアンスを持ちテロの主体、すなわちテロリストや彼を支持する人々もこの言葉を好まない。例えば伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)をテロリストと呼べば、韓国人は大きな拒否感を示す。ところが、アン・ジュングンがテロリストでなければなんであろうか?自由の闘士?そうだ。安重根は自由の闘士であった。その一方、彼は民族の自由のためにテロという手段を使ったテロリストでもあった。

「片方のテロリストは他方の自由闘士」という格言がある。この格言もやはり‘テロリスト’という言葉の否定的意味を前提にする。しかし‘テロ’や‘テロリスト’という言葉自体を価値中立的に受け入れることもできる。アルベール・カミュはある戯曲で帝政ロシアの暴政に反してツァー政権の‘人間屠殺者’を殺害したテロリストを‘正しい人々’と呼んだ。テロリストはお金を目的にする‘キラー’や‘ヒットマン’でない。職業的‘キラー’は大金を儲けようと人を殺すが、‘テロリスト’は民族や民衆の解放または、どんな理念の実現に献身しようと人を殺す。

もちろん大義の実現が目的でもすべてのテロが容認されるわけではない。例えば9・11事件のように一般市民を無差別に殺害するテロは容認できない。しかし、ここにも一線をひくことの困難が作用する。米国の軍事主義・帝国主義政策は米国市民の同意と黙認の下なされているからだ。戦争行為、すなわち軍事的侵略こそ最も残酷で巨大なテロだ。

安重根のテロは対象が明確だった。一部論者らは伊藤が朝鮮侵略と併合問題で穏健派であったとし、彼を殺したのは賢くなかったと主張するが、伊藤が殺害されなかったとしても日本は朝鮮併合をあきらめそうになかった。その上、安重根は東アジア平和を成し遂げるための方策を構想した知識人テロリストであった。彼が伊藤に行ったテロは平和主義・反植民主義という普遍的大義次元でも正当なことであったし、特に当時の朝鮮人の立場から見ればより一層正当なことだった。

安重根を‘テロリスト’と呼ぼうが‘自由の闘士’と呼ぼうが、彼はカミュ戯曲の主人公らのように‘正しい人’だった。もしも10万ウォンの紙幣が出きれば、私は彼の肖像画こそ刷り込まれるよう願う。この国の貨幣はすべて李氏一族の人々(申師任堂を含む)で満たされている。私たちの境遇では侵略の元凶である伊藤博文も一時、日本の円紙幣の肖像になったというのに、安重根義士の肖像を韓国ウォン紙幣に入れない理由は何か?

コ・ジョンソク(ジャーナリスト)

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“「1904年」以降、韓国は日本の侵略を受けており、直接抗議ができない状況に置かれていました。韓国は日本に直接抗議することができなかったのです。”

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前ページでも既に述べていますが、「竹島の編入」「1905年02月22日」。日本が韓国の外交面を担当するようになったのは、「1905年11月17日」。大韓帝国が、「統監府日韓併合前の日本の韓国(大韓帝国)支配機構に抗議したのが「1906年」 外交権が奪われて抗議することが出来なかったと言うが、日本が韓国の外交面を担当するようになった「1905年」以後の「1906年」に、「江原道蔚珍郡近北面竹邊浦」(現在の蔚珍郡(ウルチン)は、韓国慶尚北道東北部の郡。)にあった、日本海軍望楼の跡地を巡る日本人同士の土地取引を巡る一件では「大韓帝国」が、「統監府」「抗議して、阻止されている」

竹島 鬱陵島

「竹島/独島」から韓国まで「約215km」「鬱陵島」までは「約92km」なのだが、外交権を奪われた後で、韓国国内の土地に関しては「抗議」「主張」して「阻止」出来るのであれば、外交権が奪われる以前の、韓国から「約215km」離れている、「鬱陵島」からは「約92km」離れている小さな島で中井養三郎の「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」「俗にりゃんこ島と称する無人島有」とあるように、「無人島」「竹島編入」抗議できないわけがない

韓国は、「1945年」の日本の統治支配からの解放の後も、「大韓民国政府」の樹立と同年「1948年」になっても韓国の領域は「極東 東経130度56分23秒(慶尚北道 鬱陵島 竹島(チュクド・日本名・竹嶼)とある。「竹島」の東経は「131度」です。「竹嶼(チュクド)の東経は「130度」です。「竹島/独島」を韓国の領域に入れてはいません。

侵略を受けていたから抗議出来なかったと言うのなら、解放された後で言える。元々、韓国は竹島を実効支配はしていないのです。

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“強圧的に行われた日本の独島侵奪は、基本的に無効です。”

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結論 全く、「強奪」でも「強制」でも何でもない。韓国は抗議、主張できる立場にあった。

 

 

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