「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

「韓国古地図の于山島は独島。」@

作成日 2011年11月02日

 

 

「日本はこの事実を声高に批判しながら于山島は独島ではないと言うのですが」

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ちなみに、古地図の「于山島」「東西南北」どこにでも描かれている。動画の西だけではない。

クリックするともう少し大きいの見られます。

「日本は自国の古地図を批判せず、韓国の古地図のみを批判しています。行基図の誤りは八道総図の誤りより、はるかに大きいでしょう。」

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「日本國之圖」

明暦(江戸初期、後西天皇の時の年号。)二年申三月吉日[写] -- 手書図 (彩色)

 「元サイズ」

いわゆる「行基図」(ぎょうきず)。行基式日本図は、国々を丸みをおびた俵の形とし、これを積み重ね、かつ山城から諸国への経路を示すことで日本を表現することを特色とする。奈良時代の高僧行基により作成されたと伝えられ、現存する多くの行基図にもその旨記載されているが、もとより後世の仮託。ただしなぜそのように伝えられるようになったかには諸説がある。江戸時代初期まで作成された。本図においても「夫図行基菩薩所図也」との記載が序文にある。明暦2年板は最後に印刷された行基図とされるが、そのものは現存していないため、その写図である本図は貴重である。各国色別に着色し、上部を東,右を南とする。2本線で五畿七道を描く。安房の南方に「らせんこく」(羅刹国)の記載がある。

「南瞻部洲大日本国正統図」

 「元サイズ」

中世における「行基図」。戦国時代の弘治3年(1557年)に描かれたとされる「南瞻部洲大日本国正統図」。『拾芥抄』にも行基図が添付されているが、書かれた当時のものは残っておらず、現存のものは室町時代以後のものである。外側に「高麗」唐土」「蒙古(モンゴル)などの海外の国々や、「雁道」「羅刹国」などの空想上の国々が描かれているものもある。

比べて見ましょう。動画の地図と白黒の地図は同じ物ですね。カラフルな地図も上記の国名で描かれているものもあるので一緒に説明します。

まず、カラフルな「日本國之圖」の左上の土地。ここは「南瞻部洲大日本国正統図」にはありませんね。拡大すると、

上記の説明にある「高麗国」高麗(こうらい/カウライ)とは、朝鮮の王朝の一。936年、王建が朝鮮半島全土を統一して建国。都は開城。仏教文化が栄えたが、13世紀にはに服属。1392年、李成桂(りせいけい)に滅ぼされた。または「朝鮮の異称(別の呼び名)。」の意味。

白黒の「南瞻部洲大日本国正統図」の左下は、

 「大唐」

「大唐(だいとう/たいとう)とは、中国の唐朝(唐の朝廷。また、唐時代)、また、中国の美称(他人をほめていうときの呼び方)唐土昔、日本から中国をさして呼んだ名。です。この地図の北側の陸地には地名はありませんが、「日本國之圖」「南瞻部洲大日本国正統図」の南側の陸地には同じ「羅刹国」の記載があるので、北側の陸地も同じものだと思われるので、「日本國之圖」で説明します。

 「雁道」

「雁道」(がんどう/かりのみち)は、近世以前の日本人が北方に存在する信じていた架空の土地の名称である。江戸時代には「韓唐」(からとう)とも書かれた。中世の行基式日本図において、陸奥・蝦夷の北方、あるいは朝鮮半島の東側に記されており、「雁(がん、かり・とは、カモ目カモ科の水鳥の総称。)などの渡り鳥の故郷である極北の地にあり、人が足を踏み入れたことのない、あるいは龍」などの人以外が住まう土地であると信じられていた。また、この知識が中国や朝鮮半島にも伝わり、日本を描いた地図には「羅刹国」と並んで「雁道」が描かれているものがある。江戸時代中期以後の正確な地理知識の普及と人の住まう国・ロシアが現実問題として南下するにつれて地図から姿を消すことになった。

 「羅刹国」

「羅刹国(らせつこく/らせんこく)とは、「玄奘三蔵法師の著作『大唐西域記』に言及された「羅刹」女の国である。後に近世以前の日本人は日本の南方(もしくは東方)に存在すると信じられていた。

「羅刹天(らせつてん)とは、仏教の「天部(天部は、「密教」における神々を意味する尊格の一つ。)の一つ「十二天」に属する西南の「護法善神」「羅刹(らせつ)」とも言う。

「密教」とは、「秘密仏教」の略称。「大日如来」が自らの悟りのなかで、自らの悟りを楽しみながら説く、真理の教えのこと。

「大日如来」とは、「真言宗大日如来を崇拝する、仏教の一派。空海によって作られた。)において信仰される、宇宙と一体であると考えられている「如来如来は仏教において、修行を完成し、悟りを開いた人の意。胎蔵界金剛界という二種類の姿がある。

「十二天」とは、仏教の「護法善神」である「天」の諸尊12種の総称である。密教では四天王とともに重視されている。

「護法善神」とは、仏法及び仏教徒を守護する天部の「神々(天)のこと。「護法神」、あるいは「諸天善神」などともいう。

「大唐西域記」

 国立国会図書館

「大唐西域記・全12巻。」思溪版大蔵経の内。思渓版大蔵経は南宋紹興2年(1132)から浙江省湖州思溪の圓覚禅院で、王永従一族の発願で開版された大蔵経。日本にはかなりの数が舶載(船に載せて外国から運んでくること)され、江戸時代開版の天海一切経の底本となったともいわれる。『大唐西域記』は唐の僧玄奘三蔵が貞観(貞観(じょうがん)は中国代の太宗の治世に使われた元号3年(629)長安を発し、同19年(645)の帰国までに遊歴した西域、インドの仏教遺跡、風俗、生活などを記録したものである。中国明代の小説『西遊記』や、日本の今昔物語の天竺説話などに影響が見られる。近世には一切経以外に単独でも刊行されている。帖装。各巻末に歌人、仏教信仰人でもあった鎌倉幕府の御家人、藤原時朝(ふじわらの-ときとも。1203年〜1265年、鎌倉時代の武将,歌人。)が建長7年(1255)鹿島社に奉献した旨の識語がある。

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「北(雁道)と南(羅刹国)には、実際には存在しない国が描かれています。これは、とても大きな誤りです。日本は自国の古地図を批判せず、韓国の古地図のみを批判しています。行基図の誤りは八道総図の誤りより、はるかに大きいでしょう。」

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保坂祐二は根本的に解っていません。確かに架空の陸地ですが、これは、保坂祐二や韓国の批判される様な「歪曲」「捏造」とは全然意味が違います。上記の説明にあるように、昔の人達が信じていた「神々」などの「信仰」「迷信」「伝説」の類です。今においては解っている事です。動画でも言っているように、「八道総図」「于山島」「鬱陵島」の西です。韓国が主張する「独島」は、この「鬱陵島」の西側にある「于山島」と言う島。しかし、韓国の「独島博物館」にある地図には、その島がいつの間にか「東側」にある。しかし、「于山島」自体が「東西南北」どこにでも描かれているので、多分、これもその内の一つだと思いますが、それよりも、

「独島博物館」「八道総図」のレリーフ。「于山島=独島」をアピールするレリーフだ。レリーフには「八道総図」を元に、それぞれの島の位置関係が示されている。「西に鬱陵島、東に于山島」となっている。けど本物の「八道総図」にはレリーフとは逆に「西に于山島、東に鬱陵島」と記されているのだ。「于山島=独島」とするための意図的な資料改竄だ。

 しかも少しでも「日本領・竹島」に近付ける為に「八道総図」よりも距離を離してある。

竹島領有権アピールの韓国「独島博物館」、島の位置。歪曲認める(2007年5月5日付産経朝刊)

韓国政府によって竹島近くの鬱陵島(ウルルンド)に建設された「独島博物館」のレリーフが、史料と食い違っていることがわかり、博物館は近く撤去することを明らかにした。レリーフは韓国の古地図をもとに、竹島が韓国領だと視覚的に示すために作られた同館のシンボルだが、以前から日本人研究者らが「悪質な史実の歪曲(わいきょく)だ」と指摘していた。

しかし、2011年の時点では博物館側は誤ったレリーフを「近く撤去する」と答えていたが、それから4年経ったが、レリーフは以前のままだ。

『太宗実録』の太宗17年(1417年)の項に「于山島」という名が初めて表れる。

「安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生」

「時代確認と対訳」太宗17年は西暦にして「1417年」です。于山島という島名が韓国の文献に最初に表れるのが、この太宗実録です。金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。また「于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでいる」と報告した。

「独島研究所」の訳にも「1417年(太宗17)「金麟雨が于山島から土産物とともに住民3人を連れて帰り、島には15戸86人が住んでいると報告する。」と同じくある。

韓国は現在、「于山島」「独島」であると主張しているが、これは明らかに違う。現在は韓国の不法占拠により、色々と改造されているので少しは人が住める様になっている。韓国の警察も竹島に駐留しているけど、元々、竹島は人の住めない無人島であり、まして「86人」もの人間が生活出来るような島ではない。この「太宗実録」に出てくる「于山島」なる島は大竹や芋を産するとある。つまり人が住めて竹を産するこれの「于山島」とは「現在の鬱陵島」を指すものと考えられる。「按撫使の金麟雨は于山島から還り、‥‥」の部分を「鬱陵島」の傍らにある現在の「竹嶼(チュクド)から還ったと解して、これの「于山島」はその「竹嶼(チュクド)だとする説もある。竹島は上記のような環境でないため、やはり「于山島」「竹島」ではない。

 どう見ても「86人」は生活出来ない。

先に説明した通り、北(雁道)と南(羅刹国)は人が足を踏み入れたことのない、あるいは「龍」などの人間以外が住んでいる土地、仏教の「神々」など、昔の人達に信じられていた信仰の類です。現在においては解っている事です。まして、

「古地図の「雁道」は現在の「竹島」の事である。」とか「古地図の「羅刹国」は現在の「竹島」を描いたものである。」

そんな事は言っていません。しかし、韓国は「古地図の于山島は独島である。」つまり問題になっている「竹島/独島」だと現在でも主張しています。韓国の「于山島=独島」という自分達の主張を正当化したいがために、「南瞻部洲大日本国正統図」「大唐西域記」で言及された内容の事まで言い掛かりを付けてくるのは、全くの見当違いなのです

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“実際には存在しない”

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その存在しない場所を認めているのは保坂祐二、御自身ではありませんか。「日本の公式地図に独島は存在しない。」の動画で、

細かい事は 「日本の公式地図に独島は存在しない。」A で説明していますのでこちらでは多少省略します。この「新撰朝鮮国全図」の鬱陵島と独島とされている島は、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)です。

 ダージュレー島(松島)は現在の「鬱陵島」と殆ど同じなんですね。

ダージュレー島とアルゴノート島は「鬱陵島」を発見したフランスの航海家ラ・ペルーズとイギリスの探検家コルネットのそれぞれ違う緯度と経度だった事と、ヨーロッパの地図には、「アルゴノート島」「ダージュレー島」という2つの名称が並んでいる事と、「竹島」(現在の鬱陵島)「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていた、長崎出島の医師シーボルトが作成した「日本図」「アルゴノート島」「タカシマ」「ダージュレー島」「マツシマ」と記載されてしまった事などによる認識の混乱が生じたためです。

先の「新撰朝鮮国全図」の島も「竹島」「松島」と記載されています。

 「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)です。

同じ色で彩色されている事から韓国領土としたいが為に、幻のアルゴノート島を「鬱陵島」と位置付け、現在の鬱陵島に相当するダージュレー島に「松島」と記載されている事から、「独島」と位置付けている。「現・竹島」はむかし「松島」と呼ばれ、「現・鬱陵島」「竹島」と呼ばれていたからです。現・竹島は「東経131度」です。アルゴノート島は「東経129度」です。鬱陵島は「東経130度」です。ダージュレー島も「東経130度」です。実際には存在しない幻の島を認めているのです。それとも、保坂祐二はダージュレー島とアルゴノート島の事は知らなかったのでしょうか?

結論・以上のように、16世紀には于山島の位置が誤って描かれましたが、近代に近付くに従って于山島は鬱陵島の東に正確に描かれるようになり、峰の存在で確かに独島であると確認できます。すなわち于山島は、韓国領土である独島に他なりません。

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「竹嶼島」には「峰」がありません。「竹島/独島」の西島には高い「峰」があります。古地図の于山島には「峰」があるから「独島」と言うしかない。「于山島は鬱陵島の東に正確に描かれるようになり」「峰の存在」で確かに独島であると確認できると言っている。以前も保坂祐二は「竹嶼島にはが存在しないため、19世紀に筆写した『海東輿地図』に出てくる于山島は明確に今の独島を指す」と説明していた。さらに、保坂祐二は「特に独島を表記してを描いた地図は、朝鮮人が当時、独島の地形をはっきりと認識し、明確な領有意識を持っていたという点を見せている」と強調した。 何度も峰峰峰…、言うていますけど、そもそも「みね」で漢字変換で「峰」「嶺」「峯」と出ますが、

「峰・峯・嶺」は同じ意味で、丘で検索したら「峰・丘」と出る。同じ意味だ。ちなみに刀のみねうちは「みね‐うち【峰打ち/刀=背打ち】と書く。見ての通り、「山頂・物の高い所・丘」などで具体的に標高何mからそう呼ぶという定義は無い。「Dokdo of Korea」のサイトでは「西島は、高さ168.5m」とある。

朝鮮総督府刊 鬱陵島図 1917年

「間嶺峠/カンニョンチェ」「標高・129m」

「間嶺峠・カンニョンチェ」という所は「標高・129m」で西島の、「標高・168.5m」よりも低い高さだ。

錐山・ソンクッサン」「標高・50m」、「竹島/竹嶼」「標高・71.8m」、写真「竹嶼(左側が北、右側が南)」。ちなみに「錐山」という所はもう1ヶ所あったがそちらは記載が無いので高さは解らない。竹嶼は南から北に掛けて高くなっているので、地図は上が北なので大体南側の高いポイントで「71.8m」とある。「錐山」は竹嶼より低い「50m」とある。竹嶼より低いが「山」と呼ばれている。

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「竹嶼島」には「峰」がありません” “「峰」があるから「于山島」「独島」と言うしかない”

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しかし「山頂・物の高い所・丘」などで具体的に標高何mからそう呼ぶという定義は無い。つまり「于山島」「峰」が描かれているからと言ってもそれが必ずしも「竹嶼」よりも高い所を描いたもので、現・竹島に相当する高さの所を描いたものとは限らない。

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「于山島は鬱陵島の東に正確に描かれるようになり、峰の存在で確かに独島であると確認できます。」

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しかし、実際は「峰」が描かれた「于山島」でも鬱陵島の西側に描かれている地図もある。

この鬱陵島の西側の峰が描かれた于山島でなら、どうしたら問題の「竹島/独島」だと確認できるのか?

「海東輿地図・朝鮮全圖」

 大サイズ

動画で使用されているこの地図。映っていないが上部に不思議な所がある。

 「竹島」

「竹島」という島がある。幻の「竹島(アルゴノート島)の影響だろうか?位置的に見るとそう思える。トムソンという人が「1815年19世紀に作製した「朝鮮と日本」の図にも、「2つの鬱陵島(ダージュレー・Dageletとアルゴノート・Argonaut)が載っている。「日本の公式地図に独島は存在しない。」A 参照の事。この地図は動画に「19世紀半ば」とあるのでやはりアルゴノート島ではないかと思う。これについては気にならないのだろうか?それともう一つ、一番下部には、

 「日本界」・旧字体で「對馬島(対馬)・先神山

「日本海」の書き間違いとも考えたけど、「界」とは「区切り。境。仕切り。領域。」等の意味があるので見た限りではあそこから下方向が日本の領域という事でしょう。描かれている山については、対馬(旧字体は對馬)の最高峰は「矢立山(649m)。南部を下島と呼ぶ。全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部に最高峰の矢立山がある。対馬の山一覧を調べたが、「鳴滝山」「千俵蒔山」「御岳」「浅茅山」「城山」「白嶽」「有明山」「大鳥毛山」「小鳥毛山」「矢立山」「龍良山」で、地図の山はよく解らない。「対馬」日本の領土ですから「日本界」として描かれて当然ですが、韓国は「対馬は歴史的に韓国の領土である。」と捏造主張していますが、保坂祐二はこれは気にしていないようだ。

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「特に独島を表記してを描いた地図は、朝鮮人が当時、独島の地形をはっきりと認識し

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鬱陵島の東に描かれている「峰」がある于山島を見てみます。










“峰を描いた地図は・独島(竹島)の地形をはっきりと認識し”

日本領土「竹島」

「八道総図」の于山島は長丸状で単純な描き方だけど、上記の、最後はともかく峰が描かれている于山島は輪郭など大体の形状がむしろ「竹嶼」に近付いてきている。それに相変わらず「1島」です。現・竹島は細かい部分はともかく、「東島」「西島」「2島」です。日本の古地図でも現・竹島を描いている地図で、簡単に1島で描かれている地図もあるけど、位置関係や「2島」という点では于山島よりもはるかに現・竹島に近いものがある。

米子市立山陰歴史館が所蔵する「松島絵図」(1656年)の複写(左)と、韓国・国立海洋調査院が刊行した現代の竹島の海図(右)

 「松島絵図」

「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図 1696年1月(推定)

元・大サイズ

「高麗(こうらい/カウライ)は朝鮮の王朝の一で「1392年」、李成桂(りせいけい)に滅ぼされたのでこの竹嶋之絵図は「1696年」なので二番目の意味の「朝鮮の異称(別の呼び名)。」の意味と思われる。
 

「小谷伊兵衛二所持被成候竹嶋之絵図之写 1724年」

元・大サイズ

「大谷家由緒実記 地図 (米子市立山陰歴史館所蔵)

元・大サイズ

「竹島松島之図 1724年」

元・大サイズ

「竹嶋之図 1724年」

元・大サイズ

峰を描いた于山島よりもこれ等が認識していたと言える。それに上記で紹介してきた鬱陵島と于山島の地図は、于山島の峰は鬱陵島の峰と同じ様に彩色されているが、「新選 朝鮮国全図」の時は、「アルゴノート島(竹島)「ダージュレー島(松島)が韓半島と同じ色であることから、鬱陵島と独島と位置付け「同じ色で韓国領土として描かれました。」と彩色の仕方を気にしていたが、彩色された峰がある鬱陵島と于山島については気にしないようだ。例えば、





 

于山島の峰の部分は鬱陵島の峰の部分と同じく緑色で彩色されているが、これは植物を意識したのではないだろうか?「竹島(現・鬱陵島)を描いた日本の地図にも「竹嶼」と思われる島がある。

「竹島之図(1877年19世紀明治)」

これにも「峰」があり、しかも鬱陵島と同じく緑色で彩色され、「木」のようなものが描かれている。

左図上部に見える白い四角い部分は韓国に勝手に作られた何等かの施設かと思う。この竹島の画像では緑色の部分が見られるが、上記の地図の様な高い木とは違う。他の竹島の画像でも植物は確認できる。この点において「やはり、于山島は独島(竹島)だ!」と言い出しそうな気がするが、先に説明した「形状」「2島」の事を忘れないように。先に言及した「于山島」という名が初めて表れる「太宗実録」。これの「于山島」とは「現在の鬱陵島」またはこれの「于山島」「竹嶼(チュクド)だとする説もあるが、どちらにせよ、この「太宗実録」に出てくる「于山島」なる島は大竹や芋を産するとある。しかも島には15戸86人が住んでいると報告されている。上図の竹島はある程度の植物は見られるが大竹は無い。ましてや15戸86人が生活できる環境とは言い難い。「1928年9月8日東亜日報」「観音島」の説明の中で「観音島から少し船で行ったところに「竹島チュクド・韓国名は竹島。日本名は竹嶼。)という島があるが(中略)多くの「竹」が取り囲み、その中は「雑木」が生い茂っている。」とある。「竹嶼」にも「竹」があるようだ。「公文録 内務省之部 一 明治十年三月」「鬱陵島」の植物の説明の中にも「竹・マノ竹」とある。「日本植物生理学会」のサイエンス・アドバイザーの方に問い合わせてみたところ、「根茎の発達のためにも十分な土壌が必要です。竹島は土壌の不足ということで、どうも植物が繁殖するにはあまり適した環境ではないように見受けます。」と言っておりました。京都大学で竹を研究し、竹関連諸団体に所属、国際協力機構(JICA)専門家としても経験のある農学博士の方HPにも、同じく植物の見られる画像も数枚含めて竹島画像を添付して問い合わせました。やはり、竹が育つような状況にないように見えます。まず、溶岩が固まっただけの島であって、土壌らしきものが想像されません。この島に竹を植えることが出来ても、それが育つような状態にないように思われます。気温と降水量の関係がわかりませんので、竹を植えた場合の判断は異なります。」と言っておりました。「竹」が育つには「十分な土壌」が必要です。

「竹島」は海上にある火山島で火山岩からできています。韓国の独島研究所によると、「元々、独島は強い海風と枯れた土壌のせいで、岩の間に植物が少し育つ程度で木は1本もありませんでしたが、松と椿(つばき)木が植えられて現在では花をつけている様子を見ることができるようになりました。また、独島警備隊が常駐するようになってから、岩の上が整地されて家が建ち…、」とあります。つまり、元々「竹島」「土壌」「枯れている」「木は1本も無い」わけなので、「竹」「芋」「雑木」もありません。

「1905年(明治38年)2月」、現在の竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった時に、当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。「山陰新聞 in 1905年2月24日」「隠岐の新島。北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。」

それに、植物なら竹島よりも鬱陵島や竹嶼が多い。

 「鬱陵島」  「鬱陵島暖帯林」

 「竹嶼」

それに、韓国旅行の経験者の話によると鬱陵島から竹島は見えるかどうかと言うと、「約92km離れている鬱陵島から竹島が見えるかと言うと、気象条件の良い日に高台に登って、望遠鏡で見てなんとか見えるレベルではないかと思う。水平線にもやが掛かっていたら、まず無理です。」らしいです。「韓國之獨島」によると、


「鬱陵島から見える竹島/独島。」

しかし、これはカメラで撮影された写真。望遠レンズなどを使用しているかもしれない。上記の旅行者の話でも「望遠鏡で見てなんとか見えるレベル」と言っている。肉眼で見えたとしても、天気が良くてもこれぐらいしか見えない。これでは植物の確認はまず無理だ。船で近くまで見に行ったのなら形状が竹嶼に近付いていくのも不自然だ。韓国の観光スポットを紹介している韓国観光サイトでは、鬱陵島の高い所からは竹嶼が見えるようだ。竹嶼は鬱陵島から約2.2kmに位置しているので高所なら見えるのでしょう。

形状が竹嶼に近付いている事や1島である事や、実際は「峰」が描かれた于山島でも鬱陵島の西側に描かれている地図もあるが于山島は鬱陵島の東に描かれるようになっている事と鬱陵島から竹嶼までの距離などを考えれば、やはり「于山島」「竹嶼」であると言える。それに山陰中央新報の2008年01月19日付の記事によると、

「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証。

于山島についての記述があった「日省録」の一部。中央に「北有于山島周回為二三里許」とある。

日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島が、現在の韓国・鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であることを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地図を基に指摘する「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初めて。

文献は、一七六〇−一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)「日省録」。韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。

日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百−千二百メートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の記述があった。

鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。竹島は鬱陵島から九十二キロ離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか考えられない」と結論付けた。

竹島問題研究会の座長を務めた下條正男拓殖大教授は「地図から見て、于山島は竹島ではなく竹嶼であるのは明白だったが、文献で示されたことは意義深い」と評価している。

竹島問題で韓国側研究者はこれまで「地図より文献の記録を重視すべき」と同研究会の主張に反論していたことにも触れ、下條教授は「研究会の見解が正しいことが裏付けられた」と述べた。

山陰中央新報 (08/01/19)
 

 

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