「独島の真実(Truth of Dokdo)について。

「日本の公式地図に独島は存在しない。」@

 作成日 2011年10月20日

 

2011年の10月06日の聯合ニュースで、独島紹介サイト「独島の真実」 日本語版開設。 歌手のキム・ジャンフンと世宗大学の保坂祐二 韓国に帰化した日系韓国人である。が先月立ち上げた。 独島を紹介するウェブサイト「独島の真実(Truth of DOKDO)の日本語版が5日にオープンしたという記事を見たので、とりあえず視聴した。

サイト:Truth of Dokdo(独島の真実・日本語版)

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日本政府が作成した大部分の公式日本地図には鬱陵島と独島が現われません。

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まず、「01日本の公式地図に独島は存在しない。」という動画で最初に登場した日本地図がこれ。

ふむ、確かにこの地図には「竹島」は見えない。しかし、この地図は、日本地図(都道府県別)から地図を検索 :マピオン という検索サイトの地図で、

 

日本地図(都道府県別)から見たい場所の地図を検索できます。また人気のスポット情報なども探すことができます。というものだが、

北海道を見てください。カーソルを合わせると赤い四角で表示されます。しかし、この地図は選択出来るのは名前があるところだけ、それに東京の真下には沖縄がある。本来なら東京から南に三宅島など小笠原諸島がある。

マピオンの地図には描かれていない。しかも、

という事です。つまり、この動画の地図は単なる概要地図「人気のスポット情報なども探すことができます。」という様に、東京ディズニーランドやキッザニア東京、お台場、東京タワーなどのおすすめスポットなども検索出来るようになっている。「竹島」は日本の領土ですが、「日本地図(都道府県別)から見たい場所の地図を検索できます。また人気のスポット情報なども探すことができます。」というこのサイトの趣旨を考えれば、「韓国経由」でなら「竹島」に観光に行けたとしても、韓国に不法占拠されていて日本から自由に行けない「竹島」は地図に入れてもあまり意味が無いような気もする。先にも述べた通り、この地図は単なる概要地図。これで、保坂祐二「日本地図に独島(本名・竹島)が描かれていない!」と言い出すのは滑稽です。さらに「だから独島は韓国領土だと日本も認めた!」というような発想をするなら荒唐無稽である。しかも、「日本の公式地図」という位置付けがそもそもおかしい。マピオンは日本の一会社に過ぎない。マピオンの事業内容はWeb広告事業、「地図情報サイト『マピオン』は誰もが簡単かつ快適に利用できる地図サービス」「各種ASPサービス(インターネットを通じて顧客にビジネス用アプリケーションをレンタルするサービス。)やAPI(簡単にいえば、アプリケーションをプログラムするにあたって、プログラムの手間を省くため、もっと簡潔にプログラムできるように設定されたインターフェースの事。)のご提供」等なわけで、領土問題ではないのです。さらに、上記のマピオンの日本図では「小笠原諸島」「竹島」「尖閣諸島」は記載されていない。が、しかし、「保坂祐二」がこの地図で、

「独島(竹島)は存在しない。」大嘘です。

まず島根県をクリック。

 島根県の地図に「竹島」ありますよね?

では、東京、沖縄、北海道もクリックしてみる。

小笠原諸島や尖閣諸島や北方四島も、実はあるのですね。ちなみに「竹島」の東、西島をクリックすると…

「竹島」が拡大されます。ちなみに、この図の「竹島」の文字は私が入れたわけではなく、元からですよ。と言う事でこの地図においては、「日本の公式地図に「竹島/独島」は存在しない。」は大嘘です。しかも、日本地図には「鬱陵島」が現れません”、と言っているが鬱陵島」が記載されないのも当たり前です。マピオンのこの地図は、「日本地図(都道府県別)から地図を検索。」ですから、「鬱陵島」が日本の都道府県ではない。それに公式地図と言うのなら、「海上保安庁の日本の領海等概念図」には…

「竹島」は描かれている上に、日本のEEZの中に入っていますからね。それと、「国土交通省」の「国土地理院」の地図閲覧サービスにもあります。

8世紀に作成されて16世紀まで使われたという「行基図」

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それでは、次に8世紀に作成されて、16世紀まで日本の公式地図として使われた行基図を見てみましょう。

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ところで、韓国は「歴史的に見ても対馬は韓国領土だ!」捏造主張しているが、日本の公式地図と位置付けているこの日本で一番古い歴史的な地図に「対馬」が描かれている事には気にならないのだろうか?8世紀ついでに、2010年04月16日の朝鮮日報の記事で「新羅の時代から独島は韓国領土。」と韓国ハンナラ党のチョン代表が慶応大で講演したという記事を見たが、4世紀から10世紀までの「新羅」

「新羅は倭の属国」との記述が韓国の古代史研究の第1級資料から見つかる。

「梁職貢図」から新羅・高句麗題起が発見。

2011-08-23
 
新しくあらわれた梁職貢図新羅題記。青黛文集から捜し出して、ユン・ヨング博士公開。

「新羅は倭の属国」論議予告。

(新羅(しらぎ/しんら、356年4世紀〜935年10世紀)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。)(倭(わ、やまと)紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。)

(ソウル=聯合ニュース)キム・テシク記者。韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された。「特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。」

韓国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開発公社ユン・ヨング博士は去る20日西江(ソガン)大茶山館で行われた新羅史学会(フェチャン、キム・チャンギョム)第107回学術発表会を通じて中国で最近発見報告された梁職貢図題起を分析、紹介した。

ユン博士は今回公開された梁職貢図題記を南京博物館旧蔵本の梁職貢図版本と比較した結果、「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料で、合わせて百済と倭国をはじめとして既に知らされた9ヶ国の題起も内容で差が小さくない」と話した。(中略)ユン博士はこの内容中でも新羅が倭国に属したりもしたという言及が新しく現れた大きな課題であり、これをどのように受け入れるかによって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた。(以下略)聯合ニュース

「新羅の時代から独島は韓国領土。」新羅が倭国(日本)の属国なら鬱陵島から約92kmも離れている「竹島」が韓国領土だったという事はあるのだろうか?無いだろう。

行基図(ぎょうきず)とは、奈良時代の僧侶・行基が作ったとされる古式の日本地図。ただし、当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」あるいは「行基式日本図」と呼ぶケースがある。

動画と全く同じ地図は見付からなかったが、発見出来た「行基図」

江戸時代模写。まだ北海道は表示されていない。これは下図と似ているが同じ物だろうか?

行基図『拾芥抄』写本。明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行。これは動画や上2つの地図とはまた違うようだ。いくつも作られているのですね。

当時に作成されたものは現存していないという事ですので、どれも後の「行基図」の日本地図は基本的には最初の奈良時代の「行基図」を元にしていたのでしたね。では、当然動画の地図もそうですね。では、動画の地図で見てみます。

確かにこの地図には「竹島」らしい島は無い。動画でも最初に書いてあったが、「8世紀(8世紀は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す。)に作成されて」とあります。先にも記載した通り奈良時代ですね。いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年17世紀・江戸時代に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたのかもしれないが、8世紀に竹島を知っていたかどうかが疑問です。

「安龍福密航事件」が1696年だが、当時の朝鮮は鎖国政策の中にあり、違反した者は死刑を科せられたのだが、安龍福は、日本に竹島(旧・松島)の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をすることによって、自らの功労をでっち上げて死罪を逃れようとした。実際彼は死罪はならずに流罪を言い渡されるという出来事がありますが、これを根拠に韓国側は、竹島に対する韓国の主権を当時の江戸幕府に認めさせたと主張する。「安龍福は、日本に竹島の朝鮮領有を認めさせたとの嘘の発言をする。」、つまり1696年の17世紀には朝鮮人も竹島(旧・松島)の存在を知っているという事なのですが、

1913年に于山島は発見出来ず、謎の島だったと報道されていた。

韓国の新聞『毎日申報』の1913年(20世紀)6月22日付け記事には、鬱陵島の島民が10数年前に于山島を探索しようとしたことが書かれている。1696年の17世紀には朝鮮人も竹島(旧・松島)の存在を知っている、竹島の編入は1905年02月22日決定。また編入はマスコミによっても知らされた1913年には、鬱陵島の韓国人が竹島を知っていたのは確実です。韓国の主張『于山島は独島(竹島)の事である。』于山島が現在の竹島なら、探索するまでもなく鬱陵島民は知っていて当然のことであるが、結果于山島は発見出来なかった。彼等が于山島を発見できなかった理由はもちろん、それが単なる竹嶼の忘れ去られた古名に過ぎないからなのです。鬱陵島民の竹島に対する知識は、海禁政策が実施されて20年近く経てもこの程度しかなかった。

●無人島の探検中止。

鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある無人島の于山島へ移住するために移住民を募集して、その島を探すことにしました。しかし、彼によると鬱陵島の島民が、10数年前にその于山島を共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。また、その島は海図に記されておらず、何度か探索船を出したものの発見できず、中止したそうです。 毎日申報  1913.6.22

20世紀の韓国人の「竹島」の知識がこれなら、8世紀の人達が「竹島」を知っていたかどうかが疑問、と言うより知らないでしょう。現在の「竹島/独島」を、「1880年(明治13年)(19世紀)になっても認知していなかった。詳細は 1905年、日本の独島編入は無効」B を参照。

それに知っているだけで韓国の領土に自動的になるというわけではない。日本人でも8世紀に知っていたかどうか解らない。この8世紀に作成されたという、「行基図」「独島はありません。」と言っているのは外務省の「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。」「歴史的事実」という部分に反論するために、日本の歴史的な古い地図を探したのでしょう。それで「日本で一番古い行基図に独島は無い!日本の言う歴史的事実は虚偽だ!」と主張したいのだろうと思いますが、何が何でも「竹島」が描かれていない古地図を探すために8世紀にまで戻るのはさかのぼり過ぎる。それに、16世紀(16世紀、1501年から1600年までの100年間。)まで使われたという「行基図」。16世紀と言うと室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代にあたる。一枚目と二枚目の「行基図」は同じ物だと思いますが、これは江戸時代に模写した地図。三枚目の行基図は『拾芥抄』(拾芥抄は、中世(日本史で、鎌倉時代(鎌倉時代、1185年頃〜1333年)・室町時代をさす。)日本にて出された類書・百科事典。)写本。1656年17世紀・江戸時代の物。幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年(17世紀・江戸時代)に出しているので、その当時は竹島は知られているが、元が8世紀に作成された行基図、この図を後々まで日本地図の原型として用いられているなら「竹島」が無いのは当たり前。1656年の行基図も中世の写しですからね。

「保坂祐二」は以前も「1837年の日本の地図帳に独島はない」と、地域別に岩礁まで表記された『国郡全図』を公開した事がある。ちなみに、保坂祐二の公開した『国郡全図』は、江戸時代末期の天保8年(1837年)に民間人の河内屋喜兵衛ら6人が制作した『国郡全図』とある。これは、市川東谿の江戸時代、文政11年(1828)序の後刷。

【国郡全図】

上記の「国郡全図」を見てもらえれば解りますが、これは例えば「山城国」(かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、畿内に含まれた。現在の京都府南部にあたる。)とか「尾張国」(日本のかつての地方行政区分である国の一つで、東海道の西部に位置する。現在の愛知県西部に相当する。)とか「陸奥国」(明治以前の日本の地方区分である国の一つである。)とか「隠岐国」(かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。別称は隠州。現在の島根県隠岐郡にあたる。)等々、かつて日本の地方行政区分だった国の拡大図です。「国郡全図」は、「一国」一紙で諸国を表して2冊の図帖にまとめた江戸期の地図帳のことで、特長として、これまでの地図と異なり「一国」を見開きに描き、郡名、郷村、河川、寺社仏閣に至るまで記載している点が挙げられる。要するに「国絵図」と同じです。「国絵図」とは江戸幕府が主要大名に命じて作らせた旧国単位の地図を「国絵図」と言います。

『隠岐国図』

保坂祐二は『日本政府は現在「独島は隠岐島の所管地域」と主張しているが、隠岐島の地図にも独島は描かれていない。』と、この下巻の『隠岐国図』を見せていたのだが、何を言っているのか、相も変わらずです。これは、「隠岐国」の地図です。「独島国」など存在しません。しかも、“日本政府は現在「独島(竹島)は隠岐島の所管地域」”です。「現在」です。「竹島の島根県編入」「1905年」です。この隠岐国図、国郡全図は「江戸時代」です。隠岐国の拡大図なら、保坂祐二の『隠岐島の地図にも独島は描かれていない。』は当然です。竹島までの距離は、隠岐諸島の北西約157kmです。それに、「隠岐国」の地図ですから、「竹島国」でも、旧名の「松島国」ではありません。「竹島国」もしくは旧名「松島国」なんてありませんから。

しかし、上巻の画像の『日本国総図』には隠岐の北西方向に竹島と鬱陵島と見られる島があります。

地図を見ての通り、隠岐の北西のあのポイントには鬱陵島を除けば「竹島」しかないのですよ。「竹島」しかない所に『日本国総図』には「竹島」がありますから、保坂祐二の『独島に関する言及は全くない。』は当然、間違いです。朝鮮半島を描き込むスペースがあるのに描かれていない。でも竹島が描かれているのは、江戸時代は日本国土としての認識が有ったのでは?幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を1656年には既に出している。竹島の島根県編入。日本は1905年1月28日の閣議において、江戸時代には松島と呼ばれていた島を正式に竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管する旨を決定した。保坂祐二は、『日本が1905年まで独島を領土として認識していなかったことを示す、もう一つの事例。最近の日本政府は、歴史教科書などを通じ、独島が歴史的に固有の領土だったと主張しているが、この地図帳を見るだけでもそれが虚偽であることが分かる。』と語った。でも、編入する前なんだから領土だって認識していなくても不思議ではない。保坂祐二の見せていた『国郡全図』「1837年」の地図ですが、「1807年」には、江戸幕府は全ての蝦夷地(蝦夷地・明治以前の北海道・千島・樺太の総称。特に北海道のこと。)を直轄地とし、蝦夷地全体が幕府の直接の支配下となっていますが1821年に幕府は蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。、国郡全図の日本国総図は北海道は不完全です。でも、それも不思議ではない。元々「国郡全図」は、「一国」一紙で諸国を表した地図帳のことで、これまでの地図と異なり「一国」を見開きに描いたのです。「蝦夷国」(蝦夷地、北海道)は正式な令制国ではなく俗称です つまり、この『日本国総図』の地図も支配下の場所を全て描いた完全とまでは言えない上に「竹島(旧・松島)は漁場でも「国」ではないなら、描かなくても不思議じゃない。ちなみに蝦夷地を北海道と改称したのは1869年です。江戸時代ついでに「竹島」を描いた他の地図を少し。

文化3(1806)年の「華夷一覧図(かいいちらんず)

「華夷一覧図」の日本部分。隠岐諸島の上方に「松シマ」「竹シマ」と記された竹島と鬱陵島が日本領として赤く塗られている(島根県提供)

1768年(明和5年)に作られた「改製日本扶桑分里図」

1760年(宝暦10年)日本図。

米子市立山陰歴史館が所蔵する「松島絵図」(1656年)の複写(左)と、韓国・国立海洋調査院が刊行した現代の竹島の海図(右)

これも鳥取県米子市立山陰歴史館で、村川家所蔵と伝えられる江戸時代の「松島絵図」

ついでに、「対馬島」(旧字体は對馬嶋)『国郡全図』の下巻にあるのだ。この時点では「對馬嶋」、「嶋」となっているが、対馬も「対馬国」と、かつて日本の地方行政区分だった国の一つである。

話を戻しますが、8世紀に作成されたという、行基図」、古過ぎるので無意味。それに日本の古地図に「竹島」が無くても「日本地図に竹島無い=韓国領土になる。」というような領土に関する国際法でもあるのか?無いだろう。

17世紀から作成されたという日本のポルトラーノ地図

17世紀なら江戸時代ですね。竹島との位置関係を示す目印として○付けたのだろうけど、これも「対馬」に○付けているが、「日本の公式地図」と言うなら、韓国人は自分で対馬は日本と認めているようなもの。「対馬は歴史的に見ても韓国の領土!」などと言われても困る。見付けた他のポルトラーノ型日本図、江戸初期。

西洋の航海図ポルトラーノ(portolano)の作図法にならって作成されたものである。図上に数カ所の方位盤を設定し、それより放射状の線を引いて航路の方向を確認できるようにしている。日本人は、16世紀から17世紀初期にかけて、東南アジア諸国へ出かけるようになって、西洋人と接触して、航海図を入手して活用するとともに、それをもとにした日本図を作成したのである。方位線が、西洋の32線から東洋古来の12支分割法による24線に改められており、和風作りとなっている。後、もう一つ。

「ポルトラーノ 朱印船貿易の日本地図」寛文11年頃(1671)原図成立。文化8年、鷹見泉石が書き写した図である。本図のように、方位線を八方に示し内陸部の情報を省き海岸線を強調した表現形式の図を「ポルトラーノ(方位線海図)という。江戸時代の日本では、とくにこの図法の地図を「加留多(カルタ)と呼んでいた。ポルトガルやスペイン船が日本に渡航していた16世紀、その航海で実践的に使用された海図です。16世紀に入ると、貿易とキリスト教布教を目的とするポルトガルやスペイン船が日本にやってきました。「海図」、長い航海を無事に乗り切るために、正確な方位・縮尺・緯度を明示する航海のための地図がもたらされたのでした。これらの図を「ポルトラーノ」と呼びます。 日本人の朱印船貿易家たちもこの「ポルトラーノ」を用いるようになり、やがて自分たちでも制作するようになりました。しかし、江戸時代、鎖国によって日本人が海外に行くことが許されなくなると、その図が制作されることもなくなります。ポルトラーノは、その用いられた期間がとても短いものであったのです。これは色が薄くて解り辛いですね。動画と同じ地図は見付かりませんでした。では、動画の地図と和風のを見ます。

どちらの地図も「竹島」らしい島は無いですね。ついでに「鬱陵島」も無いですね。蝦夷地(北海道)も不完全ですね。竹島を描いた日本の地図は他にいくつかあるのに、わざと描かれていない地図を選んで「公式地図」などと言っていますね。両方とも左上の半島が有り得ない形状していますね。動画の地図は複数のポツポツと存在しない小島がありますね。先の「行基図」よりは上手く出来ていますけど、これに「竹島」が描かれていないからといっても、それが「韓国の領有権」の何等の証拠にはなりません。動画の最後に「結論。日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」とある。根本的に主張がおかしい。この「ポルトラーノ」地図は元々、長い航海を無事に乗り切るための貿易の海図であり、領土を確定する地図ではない。どうしてこれで「竹島」が無いと「韓国領土として認めた」という発想になるのか?それに「独島を韓国領土として地図に描き」とあるが、自分で「地図に独島は全く現れません。」と言っている。「地図に描き」と言い「地図に無い。」とはどういう事か?「独島を描き」と言うなら描かれているはず。しかし、描かれていない。荒唐無稽です。多分、「竹島」の描かれていない地図だけをわざと選んで、「公式地図」と勝手に位置付け「独島は無い!日本は独島(竹島)を日本領土と認識していない♪」と喜んでいるのだろうけど、「竹島の島根県編入」は「1905年」です。編入以前なのだから例え認識していなくても不思議ではない。もはや保坂の主張はこじ付けでしかないのです。

 「慶長日本図」

1612年(17世紀)に作成とありますね。「慶長国絵図」・「国絵図」・豊臣政権および江戸幕府の命で、諸大名らにより作成・提出された一国ごとの絵図。「1591年」豊臣秀吉が全国の国絵図と御前帳(検地帳)の作成・提出を命じたのが最初で、これにならって「1604年」(慶長9年)には徳川家康が国絵図「慶長国絵図」・御前帳(検地帳)の作成・提出を命じている。「検地帳」・検地(年貢の徴収と農民支配を目的に、幕藩領主が行った土地の測量調査。)の結果を書き記した土地台帳。

これは「国立国会図書館」の慶長日本図。刊年・江戸初期(1596年〜1615年)。江戸幕府が最初に提出を命じた「国絵図」「慶長国絵図」であるが、今は「慶長日本図」の部分としてしか伝わっていない。元の「国絵図」はもっと詳細なものだったと考えられる。斐伊川がすでに東流していることを示していて興味深い。出雲から伯耆・美作を経て上方へいく出雲街道や、石見の山間部を進んでいく中通り街道が重要な道として示されている。

いつ竹島を発見したかは定かではないが、幕府は松島(現・竹島)への渡航許可を「1656年」17世紀・江戸時代に出しているので、少なくともそれ以前に竹島(旧・松島)は日本人の経営支配下に入っていたのかもしれないが、動画は「1612年」とある。上記は最高でも「1615年」です。動画は「44年前」、上記は「41年前」です。その当時に現・竹島への渡航許可が出ていたかどうかも解らない上に、竹島も発見されていたかどうか解らない。見て解る通り、北海道は描かれていません。北海道の歴史に少し触れます。

鎌倉時代(鎌倉時代、1185年頃〜1333年)〜室町時代ごろ。和人(日本人)、函館(北海道南西部の市。)〜江差(北海道檜山郡の地名。)の海岸線付近地域に進出。(17世紀半ばごろまでは、これ以遠の和人の進出はない)

「慶長日本図」

「1443年」・安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人の本格的な蝦夷地(北海道)移住始まる。

「1514年」・このころ、上ノ国(上ノ国町は、北海道南西部、檜山振興局管内最南端にある町。)花沢館主蠣崎氏は、他の館主を被官化して勢力を伸ばしていた。1514年、蠣崎氏は松前の大館に移城して蝦夷島における和人勢力の唯一の現地支配者の地位を確保する。

「道南十二館」

「1604年」・幕府(徳川家康)、松前藩主に蝦夷地(北海道)での交易の独占権を与える。

「1624〜28年頃」・松前藩、厚岸(アッケシ・北海道東部、釧路(くしろ)総合振興局管内にある町。「場所」を開く。

動画は「1612年」とある。もう一つは「1615年」です。鎌倉時代から日本人は北海道「函館」「江差」に進出しています。地図が作成された時代には蝦夷こと北海道には既に日本人の支配が及んでいる地域があります。しかし、「慶長日本図」には「蝦夷」は描かれていない。不思議ではない。「蝦夷国」(蝦夷地)は正式な令制国ではなく俗称である。1615年の地図の説明に元の国絵図はもっと詳細なものだったと考えられる。」とあります。「国絵図」です。「国絵図」とは江戸幕府が主要大名に命じて作らせた旧国単位の地図を「国絵図」といいます。「慶長国絵図」(1604年)「寛永国絵図」(1633年)「正保国絵図」(1644年)「元禄国絵図」(1697年)「天保国絵図」(1835年)などです。国の例「隠岐国」「対馬国」伊賀国」等々。「竹島国」もしくは旧名「松島国」なんてありませんから。江戸幕府が最初に提出を命じた国絵図が慶長国絵図であるが、今は「慶長日本図」の部分としてしか伝わっていない。元の国絵図はもっと詳細なものだったと考えられる。」つまり、この地図も日本人の支配地域を完全には描いていない上に「国絵図」なら「竹島」が描かれていないのは不思議ではありません。やはり、これも「独島は現れません。」とこじ付けても韓国の竹島の不法占拠を正当化できるわけではありません。韓国の竹島の領有権の証拠にもなりません。

「正保日本図」

動画には「1655年」とありますが、幕府が、「正保御国絵図」を作成したのは、「1644年」(正保元年)です。正保元年、幕府は諸大名に対して地図及び郷村高帳(江戸幕府の命令で諸大名らにより国絵図とともに作成・提出された1国単位に各村の村高を書き上げた帳簿。)の作成を命じた。これも、「国絵図」ですね。

これにも「竹島」はありません。先にも述べた通り幕府が、「正保御国絵図」を作成したのは、「1644年」(正保元年)です。竹島(旧・松島)への渡航許可は「1656年」ですから、12年前です。動画で「1655年」としたのは、単なる間違いなのか、それとも渡航許可の「1656年」にわざと近付けたのでしょうか?いずれにせよ、いつ竹島を発見したかは定かではない以上、12年前の「1644年」の竹島の状況ははっきり解りません。先にも述べた通り、「国絵図」なら無くても不思議ではありません。これも「独島は現れません。」と言ったところで何等、証拠にはなりません。この地図においても「描かれていないから日本は認識していない。」と言いたいのか「歴史的事実」という部分に反論するために、日本の歴史的な古い地図を探したのでしょうか?竹島を描いた古地図は他にあるのに、こんなのばかりですね。しかも、「編入以前」です。もしも、「国じゃない小島だって描いているのがある!やはり独島は現れていない!」などと言うのなら、幕府が国になっていない小島を絶対に描いてはいけないと、いつ命じたのですか?

「元禄日本地図」

元禄日本図」 (←大サイズあります)元禄(1688年から1704年までの期間を指す。)10年(元禄10年の1697年時)、幕府は諸大名に対して再度地図及び郷村高帳(江戸幕府の命令で諸大名らにより国絵図とともに作成・提出された1国単位に各村の村高を書き上げた帳簿。)の作成を命じた。元禄15年、諸藩の国図を元に井上正岑・狩野良信(御用絵師)らによって全国地図も作成された。正保以後の変動については詳細に記述されているものの、地形の正確さにおいては正保日本図より後退している。

これは見た限りでは動画と同じですね。もはや、お約束で北海道は不完全で対馬はありますな。上記にあるように、元禄、「1688年」・17世紀から「1703年」・18世紀です。「1688年」には松前藩、キイタップ(キイタップ場所は後の霧多布。霧多布湿原は北海道厚岸郡浜中町にある湿原である。)「場所」を開いています。「1702年」には江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(蝦夷松・エゾマツ)に目を付け進出して、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得している。もうこの時代も日本人が北海道にて活動していますね。上記の地図は北海道が残念な事になっています。現・竹島への渡航許可が「1656年」ですから、もう知られている時代です。鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にある。しかし、李氏朝鮮(1392年-1910年)は、鬱陵島への渡航を禁じた。これには大きく分けて二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭寇による襲来から島民を守る為であった。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられた。17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、「1618年」に江戸幕府(1603年-1868年)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は「78年間」続けられた。鬱陵島への渡航許可を受けた「1618年」から数えたとしても、鬱陵島経営は「78年間」続けられたので、「1696年」くらい。(元禄10年(1697年)幕府は諸大名に対して再度地図及び郷村高帳の作成を命じた。「元禄15年」(1702年・元禄15年が1702年なのは元禄14年11月の中頃から元禄15年11月の中頃まで)諸藩の国図を元に井上正岑・狩野良信(御用絵師)らによって「全国地図」も作成された。)当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現・竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この松島(現・竹島)の経営をも手がけていた。松島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた。つまり、鬱陵島経営が大体「1696年」くらい迄、「全国地図」の作成が「1702年」くらい。 鬱陵島も既に知られている上に竹島も知られていますね。「竹島」「鬱陵島」も見られない。「全国地図」作成の「1702年」は経営が終わっている頃。現・竹島でのアシカ漁は島根県隠岐の島町の漁師が昭和初期くらいも行っていた。「1688年」には松前藩、キイタップに「場所」を開いている事から、「全国地図」作成の「1702年」はもうこの時代も日本人が北海道にて活動していますが、北海道こと蝦夷地が不完全で描かれなくても不思議ではなかったりする。

根室港は、「北海道根室市」の港湾。キイタップ場所(霧多布場所)番小屋があった。

「松前藩」は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いたである。藩主は江戸時代を通じて松前氏(蠣崎氏/松前氏(かきざきし/まつまえし)は戦国時代に蝦夷地を本拠とした戦国大名。江戸時代に松前氏と改姓した。出身地・安芸国、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陽道に位置する。現在の広島県の西部にあたる。)であった。

この「元禄日本地図」も正確には元禄10年の「元禄国絵図」(1697年)、要するに「国絵図」でさらに地形の正確さにおいては前回の正保日本図より後退している。この地図には「朝鮮」の一部が描かれている。この点で「国絵図なのに日本の国ではない朝鮮の一部が描かれている!やはり独島は現れない!」と言い出しそうですが、幕府は作成を命じてはいますが、幕府が国ではない所を絶対に描いてはいけないと、いつ命じたのですか?先に述べた通り、「竹島」「鬱陵島」も見られない。そればかりか、「隠岐国」「対馬国」も解り辛い。さらに、正確さも後退している。「独島は現れない。」は無意味です。動画の最初の辺りに「日本政府が作成した大部分の公式日本地図には鬱陵島と独島が現れません。」とありましたが、「海上保安庁の日本の領海等概念図」では「鬱陵島」は日本のEEZの外ですし、「国土交通省」「国土地理院」の地図閲覧サービスにも「鬱陵島」は無いでしょう?大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受けて、鬱陵島の経営をしていた時代もありますが、「竹島」「不法占拠」ですが、「鬱陵島」まで「不法占拠」と言いましたか?しかも、動画で最初に登場した日本地図、「日本地図(都道府県別)から地図を検索 :マピオン」という検索サイトの地図で「鬱陵島」が現れないのは当たり前です。

「享保日本地図」

「享保」(1716年から1736年までの期間を指す。)「享保日本図」「1719年」(享保4年)から「1723年」(享保8年)に完成。(18世紀)8代将軍徳川吉宗が建部賢弘(建部賢弘・1664年〜1739年。江戸時代前期から中期の和算家(日本で独自に発達した数学)。寛文4年6月生まれ。)に命じて作成した。なお、この時には諸大名からの国図の提出は求められなかった。

この時には「国図」の提出は求められていないので、「国絵図」ではないようですね。蝦夷地こと北海道は気の毒な形状ですね。「1715年」には松前藩主が幕府に提出の上申書の中で、「北海道本島・千島・カムチャツカ・樺太は松前藩領で自分が統治している。」と報告しています。「1731年」には国後島・択捉島(北方四島の2つ)の首長らが松前藩主をたずね献上品を贈っている。ちなみに、この地図が完成した「1723年」の1年後の「1724年」には、「竹島松島之図」が製作されている。松島の2つの主島(西島と東島)が描かれ、その周りに幾つかの岩礁が書かれている。小笠原諸島について少し触れます。

「1670年」紀州(紀伊国はかつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、南海道に位置する。別称は「紀州」。現在の和歌山県と三重県南部の一帯に当たる。)の蜜柑(みかん)(長右衛門ら7人)が母島に漂着し八丈島経由で伊豆(伊豆国はかつて日本の地方行政区分だった国の一つ)下田に生還、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された。現在ではこの報告例が最初の発見報告と考えられている。

「1675年」江戸幕府が漂流民の報告を元に調査船富国寿丸を派遣し島々の調査を行い「此島大日本之内也」と書かれた石碑を設置する。これは立派な日本の領有宣言なのです。当時は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。調査結果は将軍はじめ幕府上層部に披露された。

「長右衛門」は江戸時代の確実な記録に残っている中では最初に小笠原諸島に上陸した日本人の一人である。

「享保日本図」「1719年」(享保4年)から「1723年」(享保8年)に完成。既に述べた通り、「1688年」には松前藩、キイタップ(キイタップ場所は後の霧多布。霧多布湿原は北海道厚岸郡浜中町にある湿原である。)「場所」を開いています。「1702年」には江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(蝦夷松・エゾマツ)に目を付け進出して、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得している。もうこの時代も日本人が北海道を支配していますね。「1715年」には松前藩主が幕府に「北海道本島は松前藩領で自分が統治している。」と報告している。「1731年」には国後島・択捉島の首長らが松前藩主をたずね献上品を贈っている事から、地図完成の「1723年」はまだ統治している。「1675年」には小笠原諸島に石碑を設置している。地図完成の「1723年」には幕府は北海道も小笠原諸島も既に認識している。地図を見ての通り、北海道はもはや言うまでもなく、小笠原諸島も無い。これも支配地域を完全には描いていない。これにおいても、決め台詞の「独島は現れません。」は無意味です。韓国の「竹島」の領有権の証拠にもなりません。これも日本側の「歴史的に…」と言う主張に反論したいのでしょう。しかし、「竹島」「鬱陵島」も無くても不思議では無い地図。何故に保坂祐二は地図に固執するのか?この時代にどれだけ知られていたかまでは知りませんが、そもそも日本に島はいくつあるのか知っていて言っているのでしょうか?

日本にある島の数、答えられますか?

2007年5月25日
一家に一冊置いておきたい、日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』 (Amazon)

日本に島はいくつあるのか?島国と呼ばれるくらいだから、それなりに多いことは想像できるだろう。でも正確な数を知っている人はあまりいないのでは?

その答えは「6,852島」。もちろん誰も住んでいない無人島も多いのだが、それにしてもスゴイ数だ。さすが島国ニッポン。そのなかには八丈島や屋久島のように多くの人が知っている有名な島もあれば、十九島のように読むことすら難しい島もある(正解は「つるしま」)

そんな日本の島の魅力をたっぷり教えてくれる本がある。日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』だ。本に紹介されている島の数は、なんと1,100島! 1,300ページ以上のボリュームだ。それぞれの島について、基本情報や見所・特産物などの観光情報、さらにはそこに住む人々の暮らしまでもが詳しく解説されている。(エキサイトニュース)

「6,852島」です。全て描けるはずがない。竹島が無い地図をわざと選んで「独島は無い!」と言ったところで、何等の証拠にもなりません。

「大日本沿海輿地全図」

この「1821年」「大日本沿海輿地全図」と言えば、動画のこの地図は違います。「伊能忠敬原図」の「高橋景保」編です。文政10年「1827年」頃。「伊能忠敬が作成した日本地図の写し」。幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れる事はなかった。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。これは蝦夷図、東日本図、西日本図の3図から成る。「高橋景保」が部下に作成を命じ、長崎オランダ商館付の医師である「シーボルト」に渡したもの。細密に描かれ、大部分の地名は読みやすいようにカタカナで記されている。景保が国禁の地図をシーボルトに渡したのは、ロシア提督クルーゼンシュテルンの『世界周航記』等をシーボルトから得るためだった。19世紀初頭から、日本の沿岸をロシア、イギリス等の船が侵犯する事件が続いており、最新の世界事情を知ることは国益に資すると考えての行為だったが、判決は死罪という厳しいものだった。本図には、幕府による押収後、昌平坂学問所で所持していたことを示す「昌平坂」「編脩地志備用典籍」の印記がある。「大日本沿海輿地全図」とは、江戸時代後期の測量家「伊能忠敬」が中心となって作製された日本全土の実測地図。「伊能図」とも称される。この地図だと思います。伊能は「1818年」に完成を待たずに死去する。地図は伊能忠敬が73歳(1818年)没した後の3年後(1821年)に、彼の弟子達によって「大日本沿海輿地全図」として完成しました。

「大図」214枚の全景。(レプリカ)

「1821年」「大日本沿海輿地全図」伊能忠敬が没した後の3年後、弟子達によって完成。ちなみに、1821年」は幕府は蝦夷地の直轄をやめ、蝦夷地の大半を松前藩に戻した頃です。この地図は今までと違い、北海道は残念な事になっていませんね。もう少し細かく言うと、伊能忠敬の亡き後その偉業を引き継いだ、久保木清淵や暦局の吏員(吏員・りいん・公共団体の職員)・門弟が協力して、大日本沿海実測全図(225枚)と大日本沿海実測録(14巻)を完成させ、文政4年(1821年)7月に幕府に上呈しました。利用上の便宜のため3種類の縮尺の地図が作製された。「大図」(縮尺1/36,000、全214枚)「中図」(縮尺1/216,000、全8枚)「小図」(縮尺1/432,000、全3枚)

大日本沿海輿地全図 作製の経緯上総国出身で商人だった伊能忠敬は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸で幕府天文方高橋至時に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府も西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになったため国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており、伊能の事業を有益だと判断したため、測量許可のみならず、全国各藩にも協力させた。

忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。

伊能忠敬の本当の目的は地図製作のための測量ではありませんでした。地図製作というのは、地球の緯度1度分の長さを正確に測るという真の目的を果たすための、幕府の対する方便であったのです。以後、忠敬は五回17年間にわたりほぼ全国の測量を成し終えます。伊能忠敬は日本全土約4万kmを歩いて実測した

という事は伊能忠敬の本当の目的は「地球の計算」なら、「公式日本地図には鬱陵島と独島が現れません。」と言っていますが、「本当の目的が地球の計算、測る」という事ですから「鬱陵島」「竹島」まで念頭にあったとは思えない。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図が無かったので、幕府は「蝦夷地、東日本全体を測量しても良い。」という許可を与えたのだった。東日本の地図を披露した際に、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は忠敬には「続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ。」と幕命が下る。

完成させた弟子達は地球の事まで念頭に入れていたかは知りませんが、この「大日本沿海輿地全図」にも「対馬」は描かれている。対馬も「対馬国」と、かつて日本の地方行政区分だった国の一つだし、対馬は地政学的にはチョークポイント (地政学上、シーパワーを制するに当たり、戦略的に重要となる海上水路である。)にあたるところから古代より国防上重視されているようだ。「幕府も国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており」なので、「鬱陵島」「竹島」まで描く重要性があったのだろうか?「当時ロシア南下の脅威に備えて」とあるように、「1821年」になる頃には「ロシア皇帝アレキサンドル一世、勅令により、アメリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人の捕鯨や漁業を禁止。」禁止区域に、得撫島以北の千島諸島が含まれていた。この頃、ロシアでは得撫島(択捉島の上・択捉は北方領土の一つ)以北がロシア領であるとの認識が確立しつつあった事が解る。北からロシアが近付いて来ている。「鬱陵島」の無人島政策は「1881年」まで続けられたという事なので「1821年」はまだ続いている。「1618年」に江戸幕府から「鬱陵島」への渡航許可を受けて、大谷、村川両家はその後毎年交替で「鬱陵島」に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の「鬱陵島」の経営は78年間(1696年頃まで)続けられた。当時「鬱陵島」へ渡るコースは、隠岐島から松島(現・竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この松島の経営をも手がけていた。松島が航路中の「寄港地」「漁猟地」として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている事等から「猟場」ではあるものの、地図の趣旨を考えた場合、やはり「鬱陵島」「竹島」まで描く重要性はあまり無いのではなかろうか?それに既に述べた通り動画の最後に「結論。日本は長い間、独島を韓国領土として地図に描き、日本の公式地図からは除いて、独島を韓国領土として認めて来ました。」とある。この地図にも決め台詞の「独島は現れません。」を言っている。「日本は独島を地図に描き」と言い放ち「独島は現れません。」の決め台詞は何なんだか?やはりこれにも無理があるだろう。

「最上徳内」『蝦夷風俗人情之沙汰付図』(1790年)

「最上徳内」は、日本で最初に択捉島を探検した。この時、ロシア人、イジョヨ・ゾフに出会い、「択捉島」や、「得撫島」より北の知識を得ている。動画には登場しないけど、「蝦夷風俗人情之沙汰付図」はこの地図は、徳内自身の調査と、アイヌやロシア人から聞いた知識によって描かれたものと思われる。「大日本沿海輿地全図」に比べれば正確さは劣るけどこの地図には、(元サイズあります。)

 

描かれていたりする。

 

 

 

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